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滋賀県高島市

宝憧院


2009年08月13日

真言宗智山派宝憧院薬師寺といい、本尊は薬師如来座像である。山門は峯山の最勝寺跡に残っていたものを明治31年に移築した。寺伝によると、天平2(730)年に泰澄大師が一宇を建立し仏地院と称した。その後寺運が衰えたが、嘉吉2(1442)年に紀州根来寺の僧真遍上人が再建し、それ以来真言宗となり、寺名も宝憧院と改めた。
この寺には、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代の「五大明王画像」及び兆伝司(明兆)作と伝える「涅槃像」(室町時代)があり、大津絵の源流と云われる十王図が21幅残されている。
また、境内には本能寺の変の後、丹羽長秀に謀殺された若狭(小浜)領主武田元明の墓碑が残されている。
(看板資料より)


武田元明の墓

水上勉の書いた小説「湖笛」によって広く知られるようになった悲運の武将武田元明の墓である。武田元明は幼名を孫八郎と言い、若狭(小浜地方)の守護職武田大膳太夫義統の子として生まれ、父亡きあと跡目を継いで守護職となったが一部の家臣の反乱と越前の領主朝倉氏の攻撃を受け、戦に破れて朝倉氏に囚われの身となった。6年後朝倉氏が亡びたため、国に帰ることはできたものの小浜城には、織田の家臣丹羽長秀が入っていたため、城には入れず神宮寺に幽居する身となっていた。元の家臣たちは元明が一城の主となり、武田家を再興するよう運動を続けてきたが、それから10年後の天正10年、天下を統一した織田信長が明智光秀の謀叛によって、本能寺で非業の最期をとげてから、各地の武将たちはそれぞれに自分の勢力を伸ばし始めるようになったなかで、羽柴秀吉が元明の妻龍子への横恋慕から元明は、秀吉によって海津宝憧院に呼び出され、明智光秀の謀叛に味方をしたという口実で、無理に切腹をさせられたと伝えられている。この時元明は31歳であった。従者は熊谷佐兵衛と平右エ門の兄弟であったが、弟の平右エ門は主君の大事を知ると、紋を踏み破って中に入り、相手方を7、8人倒し自分も自殺して果てたということである。
(看板資料より)

 

 
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