←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県佐久市

蕃松院

2007年10月07日

大梁山蕃松院の由来
当山はご本尊に釈迦牟尼佛(お釈迦様)を戴く曹洞宗で、本山は永平寺(福井)と総持寺(鶴見)である。寺殿によると、かつて西方にあった明法寺は戦火に遭い、現中門の西に移った。その後、天正8(1580)年儀山げん孝大和尚により整備され、曹洞宗として開山された。天正11(1583)年、戦国の武将、田口城主依田信蕃は、岩尾城を攻め、弟源八郎と共に没した。その子松平康国、小諸城主となるや父信蕃の追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の御戒名「蕃松院殿節叟良○大居士」より寺号をとり蕃松院とした。
江戸時代に入り、この地は田野口藩の領下となり、天明6(1786)年より歴代藩主のお位牌を安置し菩提寺となった。寛政2(1790)年落雷のため焼失した。現本堂は文政5(1822)年の再建であるが、特にその規模は県内屈指で、彫刻の多用等江戸時代後期の曹洞宗建築の特色を今に伝えている。
歴代住職は正法の興隆と檀信徒の安祥を願い護持発展に精励された。とくに明治初期、第21世新井良音大和尚、仁王門の建立等に努め中興の祖と敬慕されている。
寺の裏山には信蕃の墓と伝えられている五輪塔があり、後方には古城が高くそびえる。実に、風光清秀の中に堂宇整然とした佐久の一大古刹である。
(看板資料より)

依田信蕃の墓と伝えられる五輪塔

蕃松院には今まで2回来たことがありました。2003年と2004年に来ているので今回は3年ぶりになります。以前は田の口城のところに記載していましたが蕃松院として独立したページにしました。というもの、蕃松院は田の口城の目印のようなものではなく、今回新たな情報を入手したのです。それはこの蕃松院に依田信蕃の墓と言われているものがあるとのことでした。考えてみれば蕃松院の蕃は依田信蕃の蕃と同じ字なのですね。それに蕃松院というのは依田信蕃の戒名とのことでした。ここでは以前来た時はあまり相手にしてくれなかった記憶があったのですが今回お寺の方は親切に色々なことを教えてくれました。まずお墓ですが本堂の裏山の少し登ったところのちょうど本堂の裏側あたりにあって、五輪の塔が2基並んでいるとのことでした。また位牌などはあるのか聞いてみたところこの蕃松院に存在するとのことで見せていただけるとのことでした。まずはお墓を見学させていただきました。向って本堂の左側から登ることができ、ちょうど本堂の裏手に五輪の塔が2つ並んでいました。すぐに分かると思います。そして下に下りてきてから本堂の中に案内していただき、位牌を見せていただくことにしました。本堂は大きくて立派でした。外観は古くて老朽化しており雨漏りもするとのことで改築の事前調査をしているとのことでした。そして依田信蕃の位牌を見せていただきました。また許可をもらって写真も撮らせて頂きました。彼の話では依田信蕃は一時期藤枝の田中城に居たことがあり、藤枝から学芸員の方が何度かこの蕃松院においでになってお話をお聞きしたりしたとのことでした。もちろん蕃松院は依田信蕃の時代よりも前から存在していましたが、信蕃死去の後、息子の代になって父である依田信蕃を弔うために修築して名前も戒名から取って蕃松院になったとのことでした。それ以前のお寺の名前については不明であるとのことでした。

依田信蕃の位牌



2004年04月03日

田の口城から下山した後、蕃松院に寄ってみましたが住職と思われる方に会うことができました。蕃松院に関する資料などがないか聞いてみましたがそのような資料はないとのことでした。蕃松院は田の口城との関係よりも龍岡城との関係が深いらしい話を教えてもらいましたが詳細は不明でした。蕃松院は今まで40年近く無人だったがこれからいろいろと直していくとおっしゃられていました。表の門の前の蕃松院由来が書かれている看板も夏頃には書き換えられるとのことでしたので後日また訪問したときに読んでみたいと思います。

 



2003年06月29日

蕃松院

田の口城の目印は蕃松院というお寺です。門の前には蕃松院由来という看板があるのですが残念ながら古くて読めません。


田の口城
芦田城

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→