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千葉県長南町

庁南城


2009年09月20日

妙見神社

甲斐の守護武田信満は、前関東管領の上杉禅秀の乱で禅秀についたため、応永24(1417)年2月、鎌倉公方足利利持氏に攻められ、甲斐の木賊山で自殺した。子の三郎信重・八郎信長は京に移った。信長は六代将軍義教に仕え、結城合戦に千葉胤直と共に加わり、結城城攻撃に参加した。宝徳元(1449)年、永享の乱で自殺した足利持氏の末子成氏が鎌倉公方となった時、信長は近習として仕え、里見義実らと共に転戦して功を立て、上総を抑えて上杉氏に抗した。信長の娘は義実に嫁したといわれ、両者は親しい関係にあった。
城は、康正2(1456)年に武田信長が上総の守護職になり、真里谷(木更津市)・庁南(長生郡長南町)の二城を築いた。のちに、子孫が二城を守って、上総の大半を領したという。その後、庁南城は安房館山城主里見氏と共に房総における新興勢力として登場する。武田信長の孫道信・宗信・吉信・清信・豊信と五代にわたって引き継がれた。
(日本城郭大系より)

庁南城跡太鼓森
長南の町並から数百メートル隔てた丘陵地内に位置する庁南城は、康正2(1456)年、甲斐武田氏の一族である武田信長により修築され、以来、天正18(1590)年の落城までの戦国時代約140年間、庁南武田氏累世の居城として有名であった。
しかし、その規模、構造などについてはほとんど不明である。寛政5(1793)年矢貫村役人から地頭所にあてた報告書に「古城跡御座候」その他が記され、大手門は古沢方面に在ったもようである。
太鼓森は、庁南城西隅の高台に在り、その東方に妙見神社がある。そのむかし、ここに物見の櫓があり、出陣、家臣への合図に太鼓を打ち鳴らしたと言い伝えられている。名勝の松も昭和32年頃枯れ、往年の姿は見られない。
(看板資料より)

長南は長柄郡の南から起こった呼称で、長北に対する語である。即ち長柄郡の南半、それもその中心として現長南の地が大字長南としてのこったのであろう。歴史的には、上総平氏の血を引く平姓長南氏が当地の在地領主であったと思われ(長福寿寺蔵木造慈恵大師座像銘文『千葉県資料』金石文篇一)、天台宗の壇林として房総天台を総管した長福寿寺の旦那でもあった。恐らく、その館も初めは三途台の一画にあったと推測される。
 戦国期の15世紀後半以降、武田氏が当地に入部し、新たに川向こうの長久寺周辺〜太鼓森に至る要害地に築城ないしは整備したかと思われる。長南武田氏は近年その系譜について整理され、一定の前進をみたが(黒田基樹「上総武田氏の基礎的検討」『袖ヶ浦市史研究』第6号)、真里谷武田氏に比べて良質な資料に欠け、諸系図に見られる系譜関係も信頼の於ける資料で追認できないのが現状である。しかし、最後の当主豊信のみは例外で、永禄期以降、北条氏と里見氏が両総の覇権を求めて争うなかにあって、当初里見氏、後、北条氏に属して戦国期を生き抜いた。天正末期には1500騎の兵力(『関東八州諸城覚書』)を有する上総有数の勢力に成長し、この間、東側の尾根続きを谷ごと広範囲に取り込み、また、宿の整備等も進めて戦国城下に発展したと考えられる。
(図説 房総の城郭より)

長南町の公民館の方にお話をお聞きして現地に行くことができました。城跡の詳細な跡地は不明とのことでしたが、デイサービスセンターびおとーぷの裏にある溜め池のようなところの西側一帯あたりではないかと話してくれました。溜池の方まで行ってみましたが特に何もなかったので引き返し、奥の山方に行ってみると庁南城跡太鼓森の看板があって更に進んで行くと鳥居があって妙見神社がありました。ここが本丸というわけではないと思いますが城の一部だったのではないかと思います。

 

 
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