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広島市

不動院


2009年08月12日


不動院の歴史
新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
ただ金堂内に安置されている本尊薬師如来座像が定朝様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以降、安芸国安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。しかし、戦国時代の大永年間(1521〜27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後50年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
当時を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、また豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし関ヶ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国49万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺全体を不動院を称するようになりました。正則公の治世は20年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以降藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。
原子爆弾投下に際しても地理的条件が幸いして災難を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。
(看板資料より)


金堂(国宝)

大内義隆が周防山口に建てたものを安国寺恵瓊が移建し、仏殿にしたと伝えられています。現存する唐様の建築としては最大の遺構であり、中世の本格的な仏殿の規模をうかがうことができます。正面一間通りを吹き放しとした珍しい構造は、大陸的な正式の手法と考えられます。天井に描かれた天女と竜の絵には「天文九年…」(1540)の賛があり建物の創建もこの頃と推定されます。
(看板資料より)


楼門(国重文)

上層の尾椎に「朝鮮木文禄三」(1594)等の刻銘があり、文禄の役に従軍した恵瓊が当寺の朝鮮から持ち帰った材木で建立したものといわれていますが建築様式から室町時代のものとみなされ、恵瓊が朝鮮木を使って修復を行ったとも考えられます。
(看板資料より)


鐘楼堂(国重文)

永享5(1433)年頃に建立されたもので内部には高麗鐘があります。銘や痕跡から天正年間移築の可能性があります。
(看板資料より)


不動堂

8月6日の不動院
不動院は爆心地から3.9キロメートル、市の中心部からかなり離れた山麓に位置しているため爆風による被害以外、大きな被爆を受けることは無かった。6日朝は特に変わったことはなく関龍暁住職と家族が住んでいたが、幸いにも原爆による負傷者も出ず、火災も発生しなかった。
しかし市の中心部で被爆した人達が郊外へ逃れる道筋であったために、次々と続く無惨な姿の被災者の死の行列は北へ北へと続き、力尽きた人々は死体となって道路といわず川土手といわず、埋めていったという。不動院の境内には被爆者があふれ、修羅場と化した。山門前では衛生兵や地域の住人が出て被爆者救護のためドラム缶入りの大豆油を用意して火傷の治療を開始したが、順番待ちの列の中で治療を待ち切れず息絶えた人も多かった。
被爆後、市中から親類縁者及び檀信徒をはじめ、一般の罹災者が非難して来て、庫裡・不動堂に充満し、ついに境内にはみ出し、暫く起居していた。
(看板資料より)

不動明王(智證大師作)


武田刑部少輔之墓

この武田刑部少輔之墓は誰の墓なのか不明です。不動院の説明板には「銀山城主武田公の墓」とあるだけで具体的な名前が特定できません。武田山(銀山城)麓の武田氏の墓の説明板には「第十代武田光和公の墓は不動院にあります」と書いてあります。
しかし「安芸・若狭武田一族」の著者高野氏は、同本の中で第十代は光広(信実)なので光和ではないのではないかとのことでした。


太閤豊臣秀吉公の遺髪の墓


中興開山恵瓊の墓


福島正則公の墓

 
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