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長野県伊那市

藤沢城

2015年05月17日

藤沢城遠景

藤沢城は蛇山とも呼ばれ、標高1032mの山頂には土塁に囲まれた平地と、南北の尾根に5本の堀が残っています。
ここは松倉峠(金沢峠)と杖突峠からの道が合流する場所で、古来から交通の要衝でした。
城主は、元暦・文治年間(1184〜90)に諏訪の社領に属していた藤沢盛景、さらに天文18(1549)年には保科正直が居住したと伝えられていますが、築城時期についてははっきりしていません。
(看板資料より)

藤沢城本郭

井上氏の子孫保科正俊、正則父子が移り住んで築城したという。保科正俊は武田氏に属し、戦功があった。
天正10(1582)年、織田信忠の軍勢が伊那へ侵入してきた際は飯田城にいたが戦わずして逃れ高遠城に籠もった。高遠城落城とともに諏訪に隠れ、本能寺の変後、旧高遠領を回復した。のち徳川氏に仕えた。
(日本城郭全集より)

藤沢城本郭

下の段からの本郭

藤沢城本郭

藤沢城の城跡は、高遠町藤沢字御堂垣外、杖突峠道、金沢峠道の分岐点、藤沢川と松倉川が合流する右岸標高1030mの蛇山山頂に位置し、杖突から藤沢川流域が一望できる。
往古諏訪大社の御狩神事の場であり、諏訪の影響が強く、諏訪・伊那を結び、諏訪防衛上重要な地であった。寿永年間(1182〜84)以前から諏訪氏一族の神次親貞が地名を名乗り地頭として支配した。鎌倉幕府のご家人でもあり、代々弓馬の技に優れた武門で流鏑馬の名手であった。一門は源頼朝入洛に随兵し、源義経に従い参戦している。承久3(1221)年以降新補地頭となり箕輪へ進出するが、武田氏伊那侵攻の渦中に衰退する。
築城は鎌倉時代藤沢余一盛景によるという説もあるが、戦国時代長禄年間(1457〜60)以前保科氏の居城で藤沢氏は麓の古屋敷に居館を構えたとの説が有力である。
(伊那の城郭より)

堀切

 

 
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