←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

市川三郷町

甲斐源氏旧蹟之碑

2013年12月22日

甲斐源氏旧蹟之碑
寛治元(1087)年八幡太郎義家の弟新羅三郎源義光が官を辞し軍兵を従えて奥州に下り兄の陣(後三年の役)に加わり武功をたてたその功績により甲斐守に任ぜられたので義光の三男である。刑部三郎源義清が12世紀のはじめ天永年間(1110〜1113)甲斐の国へ下向し、峡南市河(市川)庄青嶋の庄司として平塩へ館を築き、甲斐源氏勃興の基を開いた。
平塩の丘よりはるかに望む八ヶ岳の山麓は広大な逸見庄で牧草が密生し放牧の最適地であったので義清は長男の清光と共にこの地に移り駒の飼育に精進するが、やがて甲斐の黒駒と云われる名馬の産地となり毎年優秀なものを朝廷に献上する例となっていた。清光は逸見庄に根拠をを置いたので逸見冠者とも黒源太とも云われ、父義清と共に智略に富んだ勇猛な武将であった。義清は久安5年7月23日市河庄平塩の館で75才を一期として病没している。
法号・正覚寺殿陽山清公大居士
これより約400年を経て甲斐は武田氏の時代となる。
(看板資料より)


甲斐源氏旧跡
甲斐源氏の基を開いたという源義清は、新羅三郎義光の三男で天永年間(1110-13)に甲斐に入り市河庄、青島庄の下司として、この地に居館を造り、49才頃甲斐の目代になったといわれ、甲斐に土着した最初の人である。後、逸見の地に移り逸見冠者と呼ばれている。銅碑の「甲斐源氏旧跡碑」は三条実美の揮毫で、明治18(1885)年郡長依田孝氏らによって建てられた。
又、次のような歌碑がある。
いととしく埴生の小屋のいぶせきに千鳥なくなり市川の森 義清朝臣
山里は月に心を松風の、声より外にしるべあらしな 機山公
(看板資料より)

 



2004年08月14日

甲斐源氏旧蹟之碑
寛治元(1087)年八幡太郎義家の弟新羅三郎源義光が官を辞し軍兵を従えて奥州に下り兄の陣(後三年の役)に加わり武功をたてたその功績により甲斐守に任ぜられたので義光の三男である。刑部三郎源義清が12世紀のはじめ天永年間(1110〜1113)甲斐の国へ下向し、峡南市河(市川)庄青嶋の庄司として平塩へ館を築き、甲斐源氏勃興の基を開いた。
平塩の丘よりはるかに望む八ヶ岳の山麓は広大な逸見庄で牧草が密生し放牧の最適地であったので義清は長男の清光と共にこの地に移り駒の飼育に精進するが、やがて甲斐の黒駒と云われる名馬の産地となり毎年優秀なものを朝廷に献上する例となっていた。清光は逸見庄に根拠をを置いたので逸見冠者とも黒源太とも云われ、父義清と共に智略に富んだ勇猛な武将であった。義清は久安5年7月23日市河庄平塩の館で75才を一期として病没している。
法号・正覚寺殿陽山清公大居士
これより約400年を経て甲斐は武田氏の時代となる。
(看板資料より)


甲斐源氏旧跡
甲斐源氏の基を開いたという源義清は、新羅三郎義光の三男で天永年間(1110-13)に甲斐に入り市河庄、青島庄の下司として、この地に居館を造り、49才頃甲斐の目代になったといわれ、甲斐に土着した最初の人である。後、逸見の地に移り逸見冠者と呼ばれている。銅碑の「甲斐源氏旧跡碑」は三条実美の揮毫で、明治18(1885)年郡長依田孝氏らによって建てられた。
又、次のような歌碑がある。
いととしく埴生の小屋のいぶせきに千鳥なくなり市川の森 義清朝臣
山里は月に心を松風の、声より外にしるべあらしな 機山公
(看板資料より)


身延線市川本町駅から坂を登って平塩の丘というところに出て、平塩寺跡の向かいの道を左に入っていくと熊野神社源義清公館跡伝承地とともに、甲斐源氏旧蹟之碑があります。碑の奥は見晴らしの良い高台になっていて気分爽快です。甲斐源氏が甲斐で初めて本拠地とした所になるわけですが、こことは別に昭和町にの源義清館跡や義清塚もあります。その後、武田氏は逸見の谷戸城、韮崎の武田の庄に本拠を移していきます。

 


熊野神社
源義清公館跡伝承地 
清光寺
義清神社
平塩寺

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→