←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

山梨県北杜市

谷戸城

2013年10月13日

谷戸城 一の郭


大きな地図で見る

「ほくと山城の里」
大治5(1130)年、常陸国(茨城県)から甲斐国に配流となった源義清・清光親子の土着は、甲斐国に大きな歴史のうねりをもたらしました。甲斐源氏の誕生です。
清光(1110〜1168)は、御牧(馬を飼育するための官営の牧場)に近い逸見(八ヶ岳南麓の台地一帯を指す古い地名)に目を付け、ここを本拠とし、逸見清光と名乗りました。清光が本拠とした北杜市域には、若神子城跡(古城・南城・北城)や谷戸城跡のような山城のほか、鎧堂、清光寺、逸見神社、白旗神社といった神社仏閣まで、初期甲斐源氏にまつわる伝承をもつ旧跡が多くあり、戦国大名武田氏に繋がる甲斐源氏は、ここから甲斐国全域に広がりました。
段上または台上と呼ばれる八ヶ岳南麓の台地上は古来より逸見氏の勢力下にあり、武田信虎が享禄5(1532)年に甲斐国を統一するまでは、守護武田氏だけでなく諏訪氏、佐久の大井氏などとの戦いが幾度となく展開されました。台地上に点在する山城や砦も、この頃に使われたと考えられます。軍用道路といわれている棒道はこの台地上を通って信濃(長野県)へ抜けており、天文17(1548)年に武田信玄が信濃へ出兵した際は、谷戸に陣所を構えたとの記録が残っています。
天正10(1582)年年、武田家滅亡後の甲斐国の領有をめぐり徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の戦いでは信濃側から甲斐に侵入した北条方により台地上はほぼ制圧されました。北杜市域は主戦場となり、この時いくつかの城が北条氏により修築されたと推測されています。
(看板資料より)


横堀

谷戸城の北側を区画する空堀で、南へ緩く傾斜する尾根と山を分断して、城のある流れ山を独立した地形にしている。堀を渡るため一部を高く掘り残した部分が見つかったことから、城への出入り口の位置が確定した。途中から南へ分岐させており、六の郭の一部を囲んで独立した平場とすることで、城の出入り口の防御を強化していたと考えられる。当初は断面がV字形の薬研掘として掘られたが、分岐したほうだけ断面が台形の箱掘に掘り直されていた。
(看板資料より)


四の郭

四の郭は外縁を低い土塁で囲まれているが、空堀は掘られていなかった。郭内は黒色土が堆積し、表土のすぐ下からは多量の縄文土器が出土したことから、郭としてほとんど造成されていなかったと考えられる。整備前の土塁は高さ20cmほどのうっすらした痕跡しかなかったが、東側の斜面まで囲む長大なものであった。1〜3の郭とは造りが全く違う理由は不明で、造成中に放棄されたか臨時に整備された郭である可能性が考えられる。
(看板資料より)


帯郭

帯郭は二の郭への侵入を防ぐとともに、四の郭と五の郭をつなぐ通路の役割も担っていた。帯郭が巡っている北から東にかけて、二の郭の土塁も高くなっている。郭の外縁は低い土塁で囲まれ、四の郭へ続く虎口は喰い違い虎口の形状をとる。郭の西端には三の郭の土塁裾を斜面と分断する空堀(帯郭空堀1)が掘られ、二の郭の土塁裾にも長さ5mほどの短い空堀(帯郭空掘2)が見つかっている。特に空堀2は、その幅や深さが土塁を挟んで反対の二の郭の空堀とよく似ており、途中で埋め戻されている点も共通している。
(看板資料より)


二の郭の堀と土塁

二の郭・三の郭の北虎口
二の郭・三の郭と帯郭をつなぐ虎口である。二の郭と三の郭の空堀が接する場所を掘り残し、空堀を渡る橋としている。幅は230cm、橋の上から空堀の底までは110cmの深さであった。空堀は橋の両側で若干ずれており、喰い違い虎口の構造であったことがわかる。後世、虎口西側は土塁を崩して平場として造成されていた。北側には眺望の開ける場所であることから、物見の場として利用されていたと考えられる。
(看板資料より)

二の郭

三の郭とつながる土塁と空掘によって囲まれる。空堀は南から北に底幅が広くなり、薬研堀から箱堀へと形が変化していく。堀は途中で埋められており、廃城時に土塁を崩して埋めたものと考えられる。郭内はほぼ中央を境に北側が平坦、南側がやや傾斜しており、北側は土を敷き均した造成が顕著であった。また北側からは、細長い形の建物跡が3棟と1間×1間の正方形の建物跡が確認された。礎石はなく、柱穴の中心の距離は南北140cm、東西170cmと共通していることから、近い時期に建てられたものと考えられる。
(看板資料より)


一の郭虎口

谷戸城では、虎口のほとんどに「喰い違い虎口」の形状が用いられているが、一の郭の虎口に面する土塁には喰い違いがない。両側を高い土塁に挟まれた構造から、土塁に接して柱を立てた門を設置していたと想定される。しかし、発掘調査では礎石のような石は出土したものの、確実な門の痕跡は発見されなかった。虎口の前と土塁の下からは、土塁を築く前に掘られた、浅い堀のような遺構が見つかっている。谷戸城が改修を受けたことを示す重要な発見である。
(看板資料より)


一の郭

一の郭は谷戸城の中心となる郭で、最も高い位置にある。周囲は高さの違う土塁に囲まれ、土塁を切る形で虎口が東と北西に1ヶ所ずつ設けられている。北西側は喰い違い虎口で、低い土塁を若干ずらすことで直線的な通行を妨げている。郭の北側に集中して、直径20cmほどの小さい穴が30基近く発見されたが、建物跡を復元できる配列にはならなかった。柵のようなものが設置されていたと考えられる。
(看板資料より)


三の郭

二の郭とともに一の郭を囲む郭で、外縁に土塁と空堀が巡る。土塁の内側に空堀が掘られているのが大きな特徴である。郭といえる平坦部は狭く、一の郭西側の帯郭といった性格が強い。この郭の土塁が低いのは、西帯郭との高低差が大きいためと考えられる。一の郭と三の郭の間の斜面には階段状の造成がなされており、一の郭西側のの虎口を厳重に守っている。ここからは一の郭から投げ捨てられたと考えられる土器類が多く出土した。
(看板資料より)


二の郭・三の郭の南虎口

二の郭・三の郭の南側の虎口(出入口)である。南の帯郭から斜面を登り、そのまま空堀の中へ入るようになっている。この部分の空堀は浅く広く掘られており、西側(三の郭側)へ進むほど深くなっている。これは緩い坂道のように堀ることで、虎口から堀への出入りを迅速にするための工夫といえる。虎口の形は喰い違い虎口で、直線的に通れないため、敵兵の攻めかかる勢いを削ぎ、郭の中を見せない構造となっている。


五の郭

帯郭と斜面を挟んで接する小さい郭で、土塁や堀といった防御施設が伴わず、四の郭と似た雰囲気をもつ。郭の西半分では20cmほど掘り下げると硬くしまった土が確認され、人の頻繁な往来があったことを伺わせる。内耳土器が穴に埋められた状態で出土したほか、青磁盤の破片が見つかるなど、貴重な遺物が出土している。
(看板資料より)


帯郭

帯郭の東側では、五の郭に通ずる通路を挟んで浅く掘られた溝のような遺構が2本確認された。1本は全体が把握でき、長さ16m、幅2.5〜3.0m、深さ0.5〜0.6mの大きさで、平場をほぼ全て掘り込んであった。浅いことから帯郭を下から見上げた時に、ここを移動する城兵の動きを隠す目的で掘られたと考えられる。また、二の郭土塁下には土塁築造前に掘り込まれた痕跡が見つかっており、古い縄張りを示すものとして注目される。


南東郭と竪堀

南斜面は急な傾斜が続き、通路のような狭い帯郭が数段設けられた程度であるが、南東隅に小さい郭を造っている。ここには竪堀(南竪堀)がつながっており、斜面を移動する敵兵を堀と郭で防いでいた。竪堀は斜面を分断するするように等高線に直交して掘るもので、敵兵が横方向に移動するのを妨げる施設である。
(看板資料より)


搦め手虎口

搦め手虎口には西帯郭から城外に続く直角に曲がった空掘が掘られている。調査前から空掘が埋まりきらずに窪んだ地形となっており、一部は道として使われていた。このように城外へ続く堀は、城の出入口の1つであることを示しており、防御施設というより城平を隠しながら移動させる通路として使われていた。この空掘と西帯郭との接続部分も深く掘り込まれ、そこから横に移動すると坂道を上がるように帯郭の平場に上がることができた。
(看板資料より)


西ノ出丸の祠と丸山のモミ

村指定天然記念物
丸山のモミ
針葉常緑樹の大高木で、山地に生るが神社等の境内でも大木を見かける。幹は直立してそびえ樹高30メートル、目通り直径1メートル以上のものもあり、材は種々の用途がある。この巨樹は谷戸城の西の出丸跡にそばだつ、根張りがよく枝も力強く伸びた。樹勢盛んな独立樹の姿よく遠くからもよく見えたので、逸見台地のひとつの目標になっていた。
(看板資料より)

 



2008年04月05日

谷戸城跡の石碑と甲斐駒ケ岳

前回来たときはもう4年前になりますが当時は工事中?でした。今回は信玄公祭りが始まるまでの間の時間を利用して立ち寄ってみましたがすっかりきれいに整備されていました。当時の様子とはすっかり違った感じになってしまいました。

谷戸城ふるさと歴史館と八ヶ岳

史跡谷戸城跡は、平安時代末期に逸見清光(1110〜1168)が築城したと伝えられている。逸見の地を本拠とした清光は多くの男子に恵まれ、その子らが甲斐国内で勢力を扶植したことから、次の代では甲斐国の広い範囲を甲斐源氏が支配することとなった。なかでも武田信義は平家追討に功を上げ、後に戦国大名となる武田家の基礎を築いた。
城は流れ山とよばれる小山を利用して築かれており、北に巡らせた横堀と西側を流れる西衣川で区画している。城内は山頂部の一の郭を中心に、二の郭から五の郭までを同心円状に配し、西側の山裾には館が置かれていたと想定される六の郭が広がる。各郭の出入口は喰い違い虎口が多用され、空堀は等高線に沿うように掘る横堀が発達している。発掘調査による出土品は14〜15世紀のものが中心を占め、現代に伝わらなかった歴史をもつ城跡であることがわかってきている。
(看板資料より)

谷戸城歴史景観保全地区
大泉村役場の南に位置するこの谷戸城は甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の孫黒源太清光の居城であり別名茶臼山城または逸見城と称し、平安末から鎌倉時代初頭の要害城の典型と見られ、歴史景観保全地区に指定されています。
(看板資料より)


横堀

谷戸城の北側を区画する空堀で、南へ緩く傾斜する尾根と山を分断して、城のある流れ山を独立した地形にしている。堀を渡るため一部を高く掘り残した部分が見つかったことから、城への出入り口の位置が確定した。途中から南へ分岐させており、六の郭の一部を囲んで独立した平場とすることで、城の出入り口の防御を強化していたと考えられる。当初は断面がV字形の薬研掘として掘られたが、分岐したほうだけ断面が台形の箱掘に掘り直されていた。
(看板資料より)


四の郭

四の郭は外縁を低い土塁で囲まれているが、空堀は掘られていなかった。郭内は黒色土が堆積し、表土のすぐ下からは多量の縄文土器が出土したことから、郭としてほとんど造成されていなかったと考えられる。整備前の土塁は高さ20cmほどのうっすらした痕跡しかなかったが、東側の斜面まで囲む長大なものであった。1〜3の郭とは造りが全く違う理由は不明で、造成中に放棄されたか臨時に整備された郭である可能性が考えられる。
(看板資料より)


帯郭

帯郭は二の郭への侵入を防ぐとともに、四の郭と五の郭をつなぐ通路の役割も担っていた。帯郭が巡っている北から東にかけて、二の郭の土塁も高くなっている。郭の外縁は低い土塁で囲まれ、四の郭へ続く虎口は喰い違い虎口の形状をとる。郭の西端には三の郭の土塁裾を斜面と分断する空堀(帯郭空堀1)が掘られ、二の郭の土塁裾にも長さ5mほどの短い空堀(帯郭空掘2)が見つかっている。特に空堀2は、その幅や深さが土塁を挟んで反対の二の郭の空堀とよく似ており、途中で埋め戻されている点も共通している。
(看板資料より)


二の郭・三の郭の北虎口

二の郭・三の郭と帯郭をつなぐ虎口である。二の郭と三の郭の空堀が接する場所を掘り残し、空堀を渡る橋としている。幅は230cm、橋の上から空堀の底までは110cmの深さであった。空堀は橋の両側で若干ずれており、喰い違い虎口の構造であったことがわかる。後世、虎口西側は土塁を崩して平場として造成されていた。北側には眺望の開ける場所であることから、物見の場として利用されていたと考えられる。
(看板資料より)


二の郭

三の郭とつながる土塁と空掘によって囲まれる。空堀は南から北に底幅が広くなり、薬研堀から箱堀へと形が変化していく。堀は途中で埋められており、廃城時に土塁を崩して埋めたものと考えられる。郭内はほぼ中央を境に北側が平坦、南側がやや傾斜しており、北側は土を敷き均した造成が顕著であった。また北側からは、細長い形の建物跡が3棟と1間×1間の正方形の建物跡が確認された。礎石はなく、柱穴の中心の距離は南北140cm、東西170cmと共通していることから、近い時期に建てられたものと考えられる。
(看板資料より)


一の郭虎口

谷戸城では、虎口のほとんどに「喰い違い虎口」の形状が用いられているが、一の郭の虎口に面する土塁には喰い違いがない。両側を高い土塁に挟まれた構造から、土塁に接して柱を立てた門を設置していたと想定される。しかし、発掘調査では礎石のような石は出土したものの、確実な門の痕跡は発見されなかった。虎口の前と土塁の下からは、土塁を築く前に掘られた、浅い堀のような遺構が見つかっている。谷戸城が改修を受けたことを示す重要な発見である。
(看板資料より)


一の郭

一の郭は谷戸城の中心となる郭で、最も高い位置にある。周囲は高さの違う土塁に囲まれ、土塁を切る形で虎口が東と北西に1ヶ所ずつ設けられている。北西側は喰い違い虎口で、低い土塁を若干ずらすことで直線的な通行を妨げている。郭の北側に集中して、直径20cmほどの小さい穴が30基近く発見されたが、建物跡を復元できる配列にはならなかった。柵のようなものが設置されていたと考えられる。
(看板資料より)


三の郭

二の郭とともに一の郭を囲む郭で、外縁に土塁と空堀が巡る。土塁の内側に空堀が掘られているのが大きな特徴である。郭といえる平坦部は狭く、一の郭西側の帯郭といった性格が強い。この郭の土塁が低いのは、西帯郭との高低差が大きいためと考えられる。一の郭と三の郭の間の斜面には階段状の造成がなされており、一の郭西側のの虎口を厳重に守っている。ここからは一の郭から投げ捨てられたと考えられる土器類が多く出土した。
(看板資料より)

 



2004年04月24日

谷戸城址案内図


谷戸城は甲斐源氏の祖新羅三郎義光の孫逸見黒源太清光の居城で、当時逸見山の館と呼ばれた。清光は長男光長を逸見の庄に、二男信義を武田の庄に配したのをはじめとし、十余人の男子を甲斐の要地に拠らせて甲斐源氏繁栄のもとを開いたが、東鑑の治承4(1180)年9月の記事に、武田太郎信義らが信濃の平氏に勝って帰り、逸見山に宿した、とあるのがすなわちこの城である。
谷戸城は八ヶ岳山麓の天険を利用して築いた山城で、遠望した山の形が茶臼に似ているので、一名を茶臼山城という。城のふもとには東衣川、西衣川が流れ、堀の役をしていた。
城の本丸は周囲に土塁をめぐらしたほぼ1000平方メートルの平坦地で、二の丸、三の丸とも塁壕(からぼり)をのこしている。我が国平安末〜鎌倉初期の城跡としてまことに貴重である。
清光は、仁安3(1168)年6月この城で没した。享年59。本丸の八幡宮に清光の霊を合祀して開源明神といっている。
ちなみに武田信義の16代目の後裔が晴信(信玄)である。
(看板資料より)

谷戸城内にも駐車場がありましたが私は谷戸公園に車をとめました。上の写真はその谷戸公園から撮った写真です。谷戸公園から谷戸城を見るとその右奥には南アルプス(北岳、甲斐駒ケ岳など)が見え、振り向くと八ヶ岳をきれいに見ることができすごくいいところでした。城は本丸付近は工事中でした。案内図には西ノ出丸に清光公の墓と書かれていましたが、現場へ行ってみると祠のようなものはありましたがあれがお墓だったのでしょうか?


谷戸城本丸


谷戸城歴史景観保全地区
大泉村役場の南に位置するこの谷戸城は甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の孫黒源太清光の居城であり別名茶臼山または逸見城と称し、平安末まら鎌倉時代初頭の要害城の典型と見られ、歴史景観保全地区を大切に保護し後世に伝えましょう。
(看板資料より)



城の中郭部と内郭部
このあたりは城の中郭部であり、土塁が比較的低くめぐらされている。一部北側のみが2メートルを越えていて、そこが城の搦め手(裏口)となっていたかと思われる。
中郭部の外縁には一部3メートルを越える土塁がめぐり、内郭部ともいうべき備えであったろうか。いずれもそこには竹の矢来がめぐらされていたことであろう。
(看板資料より)


大手口(城の表口)


城の南西部にあたるこの付近は升形という石積み(20メートル)が残っており、往時はここが大手口(表口)であったと推察されている。
(看板資料より)


西ノ出丸の祠


村指定天然記念物
丸山のモミ
針葉常緑樹の大高木で、山地に生るが神社等の境内でも大木を見かける。幹は直立してそびえ樹高30メートル、目通り直径1メートル以上のものもあり、材は種々の用途がある。この巨樹は谷戸城の西の出丸跡にそばだつ、根張りがよく枝も力強く伸びた。樹勢盛んな独立樹の姿よく遠くからもよく見えたので、逸見台地のひとつの目標になっていた。
(看板資料より)




城の東側、西衣川は城の外堀の役割を果たしていたと考えられている。城の北側、現在の駐車場の北にも土塁と堀がセットとして残されている。西ノ出丸の清光の墓と伝えられている付近の道路も堀址であったと思われる。駐車場へ進む道路もやはり堀址であった。また城の東南の斜面は竪堀(東に20メートル)である。
(看板資料より)

 


清光寺
義清神社
円光院
成就院

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→