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岐阜県岐阜市

岐阜城

2017年06月04日

史跡の概要
岐阜城跡は、金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城、井口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長が天下統一の拠点とした城としてもよく知られています。
建仁年間(1201〜1203)頃に二階堂氏が最初にしえ尾を築いたといわれていますが、実態は不明です。大永5(1525)年頃、ここが守護方と長井氏の争いの舞台になったため、少なくともこのころには城として利用されていたと考えられます。天文5(1536)年には斉藤道三が拠点としていたことが分かり、以降は義龍・龍興と、斎藤氏三代の居城となりました。
永禄10(1567)年、斎藤氏を追放し美濃を攻略した信長が城に大きく改修を加え、岐阜城と名を改めました。その後、慶長5(1600)年の関ケ原合戦の前哨戦で落城し、廃城となります。
信長入城後の改修には、石垣の他巨石列を用いるなど、その構築技術に近世的な要素がうかがえます。またポルトガル宣教師ルイス・フロイスや、京都の公家である山科言継等の訪問記録が残されている点、山麓では貴重な庭園遺構群が見つかっている点も岐阜城跡の特徴と言えます。
岐阜城の城域は、ほぼ現在の金華山国有林の範囲に相当し、山麓居館を含めた約209ヘクタールが史跡指定範囲となります。居館跡や自然地形も含めて山全体が城として機能していたことが分かります。
(看板資料より)

山上部
金華山山上部とそれに続く尾根筋には、戦国時代の石垣や井戸・堀切等を見ることができます。
ルイス・フロイスの記録では、山上には100人以上の家臣がいて、城は全て塗金した屏風で飾られた、極めて豪華なものであったと伝えられています。
また、信長自らお膳を運んでもてなした、ともあります。同様の記述は山科言継の日記にも見え、大切な客人は山上の城で厚くもてなしていたことが分かります。
(看板資料より)


天下第一の門

永禄10年9月初日、稲葉山城を攻め落とした織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に本拠を移した。稲葉山の城郭を再建するとともに城下町の井ノ口を岐阜と改名し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図った。
また信長は「天下布武」の朱印用い岐阜城が天下統一へ踏み出す城となった。
信長の大志を讃えてここに冠木門を建て、その偉業を伝える。
(看板資料より)


堀切(切通)

敵の侵入を防ぐため、尾根の通路を遮断するように掘られた堀。中世山城に多く見られる施設で普段は木橋が架かっており、戦時には橋を落として防御したと考えられます。
江戸時代には「切通」と呼ばれていました。
(看板資料より)


井戸跡

石垣・井戸跡
ここの本来の地形は大きな谷ですが、石垣で両側を護岸した立派な通路が造られています。岐阜城では最も良く石垣が残る場所で、その高い技術から信長の入城後に造られたと考えられます。またここには貯水用の井戸が存在しました。
(看板資料より)

石垣跡

 
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