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岐阜県中津川市

苗木城

2004年09月19日

武田家の家督を相続した信勝の母は織田信長の養女ですが、彼女は東美濃の遠山一族である苗木城の遠山直廉のところに織田信長の妹が輿入れして生まれた娘である。資料によればおりえの方といったそうです。
信長は妹の子を自分の養女として引き取って育てていたということになる。甲陽軍鑑によれば永禄8年に彼女は勝頼のもとに輿入れしたとあり、当時勝頼は20歳、彼女は13,4歳だったと思われる。当時勝頼は諏訪四郎勝頼として高遠城にいたので彼女も高遠城にいたが、後に男の子を産んだ。これが信勝である。しかし彼女は信勝を産んで間もなく死んでしまうのである。

本丸

本丸から木曽川と中津川市街を望む


風吹門跡

二階が「飼葉蔵」として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、城下から三の丸への出入り口に位置する。門の右側(南側)に門番所が併設され、昼夜を問わず人の通行を監視していた。
城主の在城時は開門し、江戸在府中は締め切られ、右側の潜り戸が利用されていた。
(看板資料より)


大矢倉跡

大矢倉は外観からは二層に見えるが実際は三階建であった。一階は三方を石垣で囲われ、倉庫として使われていた。苗木城最大の櫓建築で、2階、3階の壁には矢狭間が設けられるなど、大手門である風吹門や北側からの防御のために作られた。
(看板資料より)


北門跡

城の外郭にあった土塀付きの門で、門番はいなかった。城の入口にある風吹門からみて、北側にあたる門であるから名前がついていた。ここから先、東側に下ると木曽川に、また北側の道は家臣の屋敷群跡に通じる。北門の脇にある小池は雨水が頼りの貯水池で馬の飲み水に利用されていた。
(看板資料より)


大門跡

苗木城の中で一番大きな大門は、2階建てで三の丸と二の丸とを仕切っていた。門の幅は二間半、二階部分は物置に利用されていた。
領主の江戸参勤交代出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は左側(東側)にある潜り戸を通行していた。
(看板資料より)


御朱印蔵跡

「切石」できっちりと積まれた石垣の上に建てられていた後朱印蔵には、将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。これらの収蔵品の虫干しは、毎年一度必ず行われ、また蔵への出入りには右側の梯子が使用された。
(看板資料より)


綿蔵門跡

本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進めなかった。
門の名の由来は、年貢として納められた真綿が門の二階に保管されていたことからきている。
(看板資料より)


坂下門跡

この門は二脚となっており、門の礎石と手前の石段が良く残されている。坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれていたが、またの名を久世門ともいう。これは三代領主友貞の奥方の実家で、苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家久世家の名からきていると伝えられている。
(看板資料より)


帯曲輪

的場、仕切門、八大竜王、清水門、不明門を経て二の丸に至る。
(看板資料より)


千石井戸

深くはないがどんな日照りの時でも水が枯れたことがなく俗に千人の用を達したといわれる。
(看板資料より)


四十八曲り道

ここから苗木城跡へ登るつづら折れの道を「四十八曲り道」と言い、三の丸跡まで約500m、標高差約150mの急峻な道です。
この道は別名「大手口道」とも言われ、領主の参勤交代等にはこの道が使われていました。古記録によると「本丸まで48回曲がる道」となっており、この道の由来となっています。
(看板資料より)


苗木遠山史料館

苗木遠山史料館は、国史跡「苗木城」の麓に戦国時代から明治時代に至る、苗木領の歴史的な文化遺産を保存・公開し、調査・研究に資することを目的に設置されました。
(パンフレット資料より)

苗木城に行く前にここに寄ることをお勧めします。苗木遠山史料館では「戦国の武将を中津川」という本(1500円くらい?)を購入しました。遠山家、織田家、武田家に関する資料及びその説明が書かれていました。これとは別に、
信長をめぐる女性たち
・武田信玄懐柔の使者 遠山氏 養女
・戦国の世を貫く純愛 松姫 信忠の許嫁
・非業に死んだ女城主 遠山景任の妻 叔母
という資料について、受付の女性に無理を言ってコピーさせてもらいました。

 

 
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