| 八王子城 |
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八王子城の縄張 要害地区 居館地区 根小屋地区など 調査と整備 八王子城の築城と落城 城主・北条氏照(1540?〜1590) 麓の管理事務所にはトイレやパンフレットなども置いてあったので頂いてきました。管理事務所から右側に登っていくと本丸などがある要害地区に行かれ、左側に降っていくと御主殿などがある居館地区に行かれます。私は最初に山登りを選びました。鳥居をくぐって真っ直ぐ進むと旧道であり、左に行くと新道です。私は登りは新道、降りは旧道を歩きましたが旧道は道が悪く特に雨などのときは新道を行くのが賢明でしょう。途中見晴らしの良いところがあり写真を撮りました。話によれば天気の良い日には新宿の高層ビル群が見えるのだそうです。 |
八王子神社
本丸跡
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標高460メートルの山頂部が本丸と呼ばれており、城の中心部にあたります。落城の時、城主不在の本丸には、横地監物が守備していたといわれています。 八王子神社の裏に続いている山道を登ってしばらく歩いていくと本丸に到着します。八王子城全体の広大な規模の割には非常に狭い本丸でした。 |
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旧道を降りてきましたが途中、左:松竹方面と右:霊園方面に道が分かれますが右側に下っていくのが正解です。今度は管理事務所か御主殿方面に向かいました。御主殿というのは城主の館があったところです。 |
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古道・曳橋・御主殿 |
橋台石垣と曳橋
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城山川の両岸の斜面に、橋を架けるための橋台石垣が発見され、御主殿へわたる橋の存在が確認されました。当時はこの橋台に簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)をこわすことによって敵の侵入を防いだものと考えられます。橋台は検出した石垣の崩れた部分を新たに補い、想定復原したものです。また、橋そのものは現代の工法で建造したものですが、史跡の景観に合うよう木造にしました。 |
築城当時の石垣
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この石垣は、土の中に400年間崩れずによく残っていたので、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。その特徴は、この城山山中から産出する砂岩を利用して、ひとつ一つ丁寧に積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。また、石垣の勾配が急なこと、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴です。 |
御主殿虎口
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城や曲輪の出入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようにさまざまな工夫がこらしてあります。御主殿の虎口は、木橋をわたった位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴です。階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cmで、約5mの幅をもっています。途中の2ヶ所の踊り場とともに、全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものです。 |
櫓門跡
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この踊り場からは4つの建物礎石が発見されました。両側の石垣の下に、敷石の面より10cmほど高くなっている大きな石がそれです。礎石の間は、東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.6mあります。想定される建物は、通路の重要な位置にあることから、物見や指揮をするための櫓門であったかもしれません。また礎石のそばには排水のための石組側溝も発見されています。この礎石や石組側溝、大部分の石垣や敷石は当時のものを利用しています。 |
御主殿跡

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この場所は、江戸時代はじめに描かれた八王子城古図に「北条陸奥守殿御主殿」と記されており、城主北条氏照が居住していたところです。今から約400年前の築城時に造成され、周囲を石垣と土塁で囲んだ長方形の削平地となっています。特に東側は敵の進入に対し厳重に防備するため、石垣で造られた虎口で守られています。これまでの八王子市教育委員会の発掘調査では、平らな部分から規模の大きい建物跡等が確認されており、今後も継続的に調査し、その成果をもとに史跡整備を進める計画です。 |
御主殿の滝
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豊臣秀吉の小田原攻めの時に、前田利家、上杉景勝らにより攻められ1日で落城してしまいますが、落城の際に城中の婦女子が身を投じたため、川の流れが三日三晩赤く染まったという伝説があるそうです。 |
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八王子城に来てみれば分かりますが規模の大きな山城です。築城された時期が元亀から天正初めとのことですのでかなり遅い時代のものであり、この時期に築城された貴重な山城のひとつでしょう。武田軍の備えとして築かれたであろう八王子城は武田軍には攻められませんでしたが豊臣秀吉に攻められて落城してしまいます。攻撃側に加わっていた上杉景勝は御館の乱で北条氏政の弟で上杉家に養子にきていた景虎との後継者争いに勝利して上杉家を継いでおり、いわば昔からの宿敵である北条氏の城を攻めていたのですね。 →滝山城
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