←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県松本市

広田寺

2014年11月16日

会田塚と虚空蔵山城

会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骸の代わりに埋められたと言われている。会田氏は天正10(1582)年10月、小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住持は安置されていた開基(岩下豊後守)の位牌を持って現在の広田寺付近に逃れた。戦いの後ここに遺品を収め、会田氏一党の供養が行なわれたと言われる。
広田寺過去帳には、会田岩下氏によって中興された知見寺は、広田寺の東の山を越した知見寺というところにあったが、小笠原勢に焼かれ、時の住持が「開基殿(岩下豊後守)の御尊牌をいただき奉り、山中に安座することひと七日なり」とある。
(看板資料より)

本堂



2005年12月04日

武田家滅亡後、勢力を盛り返した小笠原氏により滅ぼされてしまった会田氏。その会田氏ゆかりの寺である広田寺の本堂の屋根には真田家の家紋と同じ六文銭の家紋がありました。虚空蔵山城でも書きましたが、会田氏は、佐久郡望月で栄えた滋野氏の一派である海野氏の一族であり、真田氏とは同族になります。武田家滅亡から織田軍による支配、更にすぐ直後に信長の死による混乱の中、会田氏は武田氏以前の主であった小笠原氏により滅ぼされてしまったのです。

旧四賀村役場(現在は松本市役所四賀支所)で四賀村誌を見せていただき、付近に会田氏にゆかりのある広田寺という寺があることを知り、急遽寄ることにしました。会田塚は広田寺に向って左側にありました。寺の前にある駐車場に車を止めて寺の正面に向ってみると左側に「会田塚→」と書かれた看板がありましたが、最初はお寺の境内の左側に行ってしまいましたが実はもっと左側だったのです。「会田塚→」の看板から下に流れる小川まで下っていくのです。途中壊れかけている木の小橋もありましたがそのまま道なりに進んで行くと会田塚にたどり着くことができます。奥には会田虚空蔵山もあり静かでいいところでした。

会田塚と虚空蔵山城

会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骸の代わりに埋められたと言われている。会田氏は天正10(1582)年10月、小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住持は安置されていた開基(岩下豊後守)の位牌を持って現在の広田寺付近に逃れた。戦いの後ここに遺品を収め、会田氏一党の供養が行なわれたと言われる。
広田寺過去帳には、会田岩下氏によって中興された知見寺は、広田寺の東の山を越した知見寺というところにあったが、小笠原勢に焼かれ、時の住持が「開基殿(岩下豊後守)の御尊牌をいただき奉り、山中に安座することひと七日なり」とある。
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→