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長野県松本市

虚空蔵山城

2014年11月16日

本丸

武田信玄が活躍していた頃、この虚空蔵山城の城主であった会田氏は、佐久郡望月の牧を中心に根を張って栄えた滋野氏の一派である海野氏の一族である。
海野幸氏は小太郎といい、源頼朝に気に入られ海野の庄を安堵されていた。
長男茂氏は本家を継ぎ、次男幸持が会田を称した。四男幸春は真田七郎と称して真田氏の祖となり、五男幸次は塔の原氏の祖、六男幸元は光の六郎、七男幸国は田沢氏の祖、八男が刈屋五郎を称した。これ以外にも色々な説があるらしいが、少なくとも会田氏は海野氏の分家であるというのは本当らしい。
海野氏の本流は小県の海野庄(東部町)を中心に勢力を張り、その分流の海野氏は、会田に移ったため地名により会田氏と称した。会田氏は現在の会田小学校のある殿村の地に居館し、その南を城下町と、要害城を虚空蔵山中の陣に持っていた。
虚空蔵山は会田富士と呼ばれる火山性の山で、標高1136m、頂上は屋根のように東西に長く、山頂には数郭をなし、鎌倉時代の山城の特徴を有しているが、山頂には水の手はなく日常の防備は中腹の「中の陣」と呼ばれる場所を中心にその東に接して「秋吉」と呼ばれる帯郭形の砦がある。いわゆる本城はこの「中の陣」であろう。
殿村の館、中の陣、虚空蔵山を総称して会田城と称するらしいが、虚空蔵山は要害城として機能したものと思われる。
小笠原長時は天文17(1548)年に塩尻峠の戦いで武田信玄に敗れ、その2年後には本城である林城を追われた。天文22年には武田信玄は刈谷原城の太田氏を攻めて4月2日には落城させた。翌3日には会田虚空蔵山が放火され塔原城とともに武田方に降参した。
会田氏が容易に降参した理由は小県海野氏の後をついだ同族の真田幸隆が武田方にいて降伏を勧めたことや、もともと小笠原氏との間には強い結びつきはなかったことなどがあげられている。
また高白斎記によると、武田方に降参した会田の海野下野守(岩下氏)に、刈谷原城を加増しようとしたところ、既に刈谷原城代となっていた今福石見守が渋ったため、別の地を替地として与えたとのことである。この後、会田の海野氏は武田軍団の一員となり、10騎の軍役をつとめて各地に転戦し、武田勝頼の滅亡後は小笠原貞慶に滅ぼされた。
(旧四賀村誌より抜粋)

本丸から見えた爺ヶ岳(左)と鹿島槍(右)

縦方向から見た堀切

縦方向から見た堀切

横方向から見た堀切

オゲ水(湧水)



2005年12月04日

虚空蔵山山頂

虚空蔵山自然探勝園案内図

武田信玄が活躍していた頃、この虚空蔵山城の城主であった会田氏は、佐久郡望月の牧を中心に根を張って栄えた滋野氏の一派である海野氏の一族である。
海野幸氏は小太郎といい、源頼朝に気に入られ海野の庄を安堵されていた。
長男茂氏は本家を継ぎ、次男幸持が会田を称した。四男幸春は真田七郎と称して真田氏の祖となり、五男幸次は塔の原氏の祖、六男幸元は光の六郎、七男幸国は田沢氏の祖、八男が刈屋五郎を称した。これ以外にも色々な説があるらしいが、少なくとも会田氏は海野氏の分家であるというのは本当らしい。
海野氏の本流は小県の海野庄(東部町)を中心に勢力を張り、その分流の海野氏は、会田に移ったため地名により会田氏と称した。会田氏は現在の会田小学校のある殿村の地に居館し、その南を城下町と、要害城を虚空蔵山中の陣に持っていた。
虚空蔵山は会田富士と呼ばれる火山性の山で、標高1136m、頂上は屋根のように東西に長く、山頂には数郭をなし、鎌倉時代の山城の特徴を有しているが、山頂には水の手はなく日常の防備は中腹の「中の陣」と呼ばれる場所を中心にその東に接して「秋吉」と呼ばれる帯郭形の砦がある。いわゆる本城はこの「中の陣」であろう。
殿村の館、中の陣、虚空蔵山を総称して会田城と称するらしいが、虚空蔵山は要害城として機能したものと思われる。
小笠原長時は天文17(1548)年に塩尻峠の戦いで武田信玄に敗れ、その2年後には本城である林城を追われた。天文22年には武田信玄は刈谷原城の太田氏を攻めて4月2日には落城させた。翌3日には会田虚空蔵山が放火され塔原城とともに武田方に降参した。
会田氏が容易に降参した理由は小県海野氏の後をついだ同族の真田幸隆が武田方にいて降伏を勧めたことや、もともと小笠原氏との間には強い結びつきはなかったことなどがあげられている。
また高白斎記によると、武田方に降参した会田の海野下野守(岩下氏)に、刈谷原城を加増しようとしたところ、既に刈谷原城代となっていた今福石見守が渋ったため、別の地を替地として与えたとのことである。この後、会田の海野氏は武田軍団の一員となり、10騎の軍役をつとめて各地に転戦し、武田勝頼の滅亡後は小笠原貞慶に滅ぼされた。
(以上は旧四賀村誌を参考にさせていただきました)


麓からの虚空蔵山城

前日に梓川S.Aで車中泊して6時半起床。既に気温は氷点下まで下がっておりなかなか起き上がることができませんでしたが頑張って起きて虚空蔵山城に向いました。途中、本日第2の目的地である刈谷原城の下を走る刈谷原トンネルを通っていきました。その後近くまで行ったのですが登山道の入口を見つけることができず付近を歩いていた親切な老人に道を聞いたら丁寧に教えてくれました。それによると四賀有機センターのところから虚空蔵林道に入り、最初の看板のところに第1の登山道入口があるものの、このルートはなだらかだが距離が長く時間がかかるとのことでした。そこから更に虚空蔵林道を進むとまた看板があり、湧水があるところ(下の写真のところ)に出るがそこが第2の登山道の入口(下の写真のところ)とのことでした。私はあえてつらい道を選びました。先を急ぐこともあり、第2の道であれば早く頂上に登れるとのことでしたのでこちらのルートを選びました。

オゲ水(湧水)

虚空蔵山登山道入口

上の写真の登山道入口のところから虚空蔵山に登ることに決め、近くに車を止めて登山の準備をしました。ルーフボックスを開けて、登山靴、膝のサポーター、ストック、手袋を装着して、7時45分に登山を開始しました。


岩屋神社

岩屋神社を通過すると岩がゴツゴツしている地形となり、尾根まで登りきると雪が残っていました。そこから右に向って進むとすぐに山頂にたどり着くことができました。ゆっくり歩いてきましたが、8時5分ころには山頂(一番上の写真)に到着しました。頂上には虚空蔵山城跡と書かれた石碑がありましたが、あまり広いところではありませんでした。しかし頂上からの眺めは良く、四方の街の様子を眺めることができました。

 
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