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山梨県上野原市

保福寺

2007年12月01日

保福寺には以前来たことがあったのですが、朝早い時間だったのでお寺の人と会うことができずそのまま次の史跡に向かってしまったのでした。今回少し早い時間に笹子トンネルを越えることができたのでもう一度保福寺に寄ってみました。山門のすぐ横に加藤丹後守景忠公の供養塔がありました。また本堂は今度再建されるとのことで完成予想図が掲げられていました。今日はお話を聞いてみたかったのでお寺を訪ねてみるとご住職が対応してくれました。パンフレットのようなものはないかどうか聞いてみたところ、パンフレットはないので直接説明してくれるとのことでわざわざ外まで出てきてくれました。
山門横には加藤丹後守景忠公の供養塔があるが供養塔は墓ではないのでここにはお骨はないとのことでした。加藤景忠公は武田家が滅ぶ天正10(1582)年に武蔵国に逃れて箱根ヶ崎で百姓一揆により殺害されたと言われているが、保福寺に残る過去帳と照らし合わせてみると年齢的に矛盾が生じるとのことでした。長篠・設楽原の戦いの際は留守居役で参戦していないとも言われているそうですが、実際は長篠・設楽原の合戦で戦死しているはずであるとのことでした。
武田信玄公は天下取りのために河野水軍の武将である越智氏(越智通言)を甲州に招き、この地に居たとのことでした。そのころの加藤氏の館はもう少し甲州街道の方だったらしいです。永禄の頃、越智氏が去った後に加藤氏がこの地にお寺を建てて保福寺の開基となったとのことでした。当時は山門と本堂の間にも建物があったとのことです。ご住職は色々と研究されているようで、この他にも色々なお話を聞かせてもらいました。

加藤丹後守景忠公供養塔

 
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