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山梨県甲州市

放光寺

2013年09月21日

高橋山放光寺の沿革
放光寺は山号を高橋山といい、真言宗智山派に属する。元暦元(1184)年甲斐源氏新羅三郎義光の孫安田遠江守義定の創立で開山は賀賢上人である。
はじめは平安時代に山岳仏教として大菩薩峠の山麓の一之瀬高橋に建立し、法光山高橋寺と称していた。
安田一門の悲劇を産んで以来は武田氏の護持をうけ、特に信玄は祈願所と定め寺領を寄進した。天正10(1582)年織田の兵火をこうむって一山ことごとく無に帰したが、徳川氏の保護を受け、寛文年間には義定の直子孫保田若狭守宗雪が中興開基となり現在の基礎をなした。
寺に保存されている文化財は多く、中でも平安時代の仏像三躯は著名である。以下主な文化財を列挙する。
重要文化財
 彫刻 木造大日如来坐像 一躯 平安時代
       木造不動明王坐像 一躯 平安時代
     木造愛染明王坐像 一躯 平安時代
     木造金剛力士立造 ニ躯 鎌倉時代
山梨県指定
 工芸品 放光寺銅鐘 一口 南北朝時代
 書跡 紙本墨書大般若経 五八九巻 南北朝時代
塩山市指定文化財
 建造物 放光寺本堂 一棟 江戸時代
       放光寺庫裏 一棟 江戸時代
 彫刻 木造毘沙門天立像 一躯 鎌倉時代
 考古資料 放光寺遺跡出土品一括 三点 中世
 歴史資料 法隆寺金堂西壁阿弥陀三尊図写 三幅 江戸時代
境内東側の道路の脇を流れる「小屋敷セギ」に沿って降ると、市指定有形文化財「西藤木の水車」があり、セギとともに生活していた頃の風景が残されている。
(看板資料より)


重要文化財 木造金剛力士像二躯附木札一枚

放光寺の仁王門は現在地から1km南の武士原(古くは仏師原)にあったと言われ、江戸時代に入り寺の復興に伴って、新しく仁王門を今の場所に建て、仏師原の金剛力士像二躯を移したものとされている。
向かって右側の阿形像は総高2.7メートル、左側の吽形像は総高2.7メートルを有し共に腰部のみ着衣し、上体に天衣をまとう。
両躯とも総じて安定した姿勢を保ち、ひかえめな中にも言い知れない忿怒の想を現している。阿形像の体内から発見された木札から元禄16(1703)年に修復を受けている。
全身に施された朱彩や裳の藍色はその時のものと考えられる。特異なのは、鬢だけを剃り残してもとどりを結いあげていることで、他に例がない。また吽形像の裳裾があたかも風になびいてまくれあがっているかのように表されているのも珍しく、全国に2件同例が知られているのみである。造立は鎌倉時代前期と考えられ秀作である。
(看板資料より)


木造大日如来坐像(重要文化財)

大日如来とは梵名を摩訶毘盧遮那仏という。金剛界大日如来と胎蔵界大日如来があり、如来、菩薩、明王、天部など諸尊を統一する真言宗の教主である。当山に所蔵されている大日如来は檜材の寄木造で座高は95.4cmの坐像である。白亳は木製で、宝冠は銅製渡金である。垂髪天冠台は彫り出し、毛筋彫、彫眼である。
条帛をかけ智拳の印を結び、裳腰布をつけて右前に結跏趺坐する姿は金剛界の大日如来である。 
部分的に布張錆下地漆箔で、構造は頭体幹部を左右に二材矧、割首し内刳りする。肩、臂、手首で矧一。両脚部は一材、両膝奥に各一材を矧ぎ付ける。なお両腕に連珠文の臂釧を浅く刻んだあとがみられる。宝冠は八角形で宝相萃の透彫で、裏に銅板をあてて打ちつけている。胸飾、飾紐、また台座、光背は後補である。本像の衣紋は流麗にして円満であり、豊かな体格の中に優美にして威厳を有するところは、12世紀後半における円派の造像の特徴をよく伝えているので、愛染明王と共に京都の円派系の工房で大仏師により造立されたものと考えられる。また放光寺が元暦元年(1184)に甲斐源氏安田義定によって創建されているが、大日如来像も放光寺創建時の造立と符合する。また、本造は元禄二年(1689)甲府の仏師松尾圓道によって修理され、さらに昭和五年に文部省が修理している。
総高96.4、像高95.4。
(塩山市史より) 


木造不動明王立像(重要文化財)

この尊像は内刳のある檜財の一木造、部分的には布張りで彩色のある立像である。刀法は浅く外見はやわらかで、特に衣紋は流麗、忿怒の相の中にもおだやかな気品に満ちた作風に特色があり、髪は総髪、眼は天地眼で、彫眼である。条帛をかけて裳をつけ、左手は下に伸ばして羂索を執り、右手は屈臂して宝剣を把む姿である。手足はやや細めに作られており、腰を右にわずかにひねり力強さを現わしている。本像は愛染明王と同じく彩色像でありながら、愛染明王とは異なり下地に布張錆下地であることや、その作風から工房を異にすると思われるが、製作時期は平安後期当寺創建期に在地で製作したものではないかと考えられる。
解体修理は元禄2(1689)年と昭和5(1930)年に行っており、以前は愛染堂に合祀してあったが、昭和43年以降収蔵庫に安置される。像高148.4。
(塩山市史より)


木造愛染明王坐像(重要文化財)

愛染明王は愛欲をはじめ全ての欲望にとらわれ染まる衆生を浄化解脱させる明王である。放光寺所蔵の愛染明王は、檜材の寄木造で像高89.1センチの彩色像であるが、ほとんど剥落している。焔髪に獅子冠をつけ三眼瞋目の彫目で、口を開いている。条帛をかけ、裳をつけ、右前に結跏趺座する。左手は屈臂し腹にあて五鈷鈴をとり、右手は屈臂し胸に当て五鈷をとる。左脇第一手は屈臂し胸にあて矢をとる。左第二手屈臂と右第二手屈臂は蓮をとる姿で、三眼六臂の姿である。本像は弓と矢をつがえた天弓愛染明王像の姿に表されているが、全国に京都神童寺、高野山金剛峯寺と当寺の三躯が天弓愛染として重文に指定されている。
本像の構造は、左右二材を矧ぎ、内刳りし別材の背板をはめる。肩臂で矧ぐ。両脚部一材。両膝奥に各一材を矧ぎ付ける。持物、瓔珞、裳先、光背、台座は後補である。総じて彫りは浅く、錐の如く輝く目も鎌倉期にみる忿怒相とは違い激しくはない。肉付も清楚穏健、小さな獅子冠も流麗で静謐の中に畏怖を感じられる点は、大日如来像とほぼ同時期、12世紀後半における円派の造像の特徴をよく伝えている。特に六臂のうち二臂で弓矢をつがえるという複雑な造形を全体からみて破綻なくまとめているところは、大日如来と同様京都の工房でかなり熟練した仏師の制作と思われる。天弓愛染明王では日本最古の仏像である。
(看板資料より)


木造毘沙門天立像

甲斐源氏安田義定
当山開基遠江守安田三郎源朝臣義定は、平安末期鎌倉初頭の甲斐源氏中核の武将である。長承3(1134)年、甲斐源氏安田冠者刑部三郎義清の四男として生まれた。当時の在庁官人の三枝氏を抑えて山梨郡に入り、八幡、高橋、牧の三庄を収め、小原に居館を構え、小田野に要害城を築いた。
治承4(1180)年4月、以仁王の令旨を奉じて平家打倒の旗を揚げ、10月武田信義と謀って富士川の戦いに大勝し、功により遠江守護に任ぜられた。
ついで寿永2年8月には従五位下に叙して遠江守を受領。さらに平家追討使を命ぜられ搦手の大将源義経軍の副大将として活躍する。かくして一ノ谷では敵将平経正、同師盛らを討ち取って名をとどろかせ、文治元年3月には壇ノ浦に平家追滅の大功を立てた。
同年8月の行賞で、嫡男義資が名誉ある源氏6人に列し従五位下越後守に叙任された。同5年、奥州藤原氏征伐にも功を立て擢んじられて禁裡守護の大任に就いた。義定は甲斐源氏の諸流とともに終始頼朝の鎌倉幕府創立に協力したが、かねて安田一族の武力と権勢に脅威を感じていた頼朝は、梶原景時の讒言を信じて建久4年11月義資を誅殺し、翌5(1194)年8月19日には景時を討手として館を襲わせた。公は武運拙く当山大御堂に退き、従容として壮烈な自刃を遂げた。享年61。一族重臣の難に殉するもの100有余人にのぼった。梶原一門は義定の亡魂を鎮めようと多聞天王像を造顕して開基廟に収めた。公が甲州文化に寄与した功績は不朽で、元暦元年当山を建立し、重要文化財大日如来像、愛染明王像、不動明王像・金剛力士像を勧請した。また県指定文化財建久2(1191)年初鋳在銘梵鐘を寄進した。
(看板資料より)

一の谷合戦
元暦元(1184)年、義経軍は播磨の三木の近くまで進み、軍を二つに分け義経は畠山重忠以下三千騎を率いて鵯越の山道を福原に進み、安田義定は土肥実平ら七千の軍兵をもって明石川沿いに一ノ谷の両方から攻撃した。一方大手の城戸に向かった範頼軍は生田の森の敵陣めがけて進んだ、武田有義、千葉常胤、梶原景時ら精鋭は、一挙に城戸を討ち破ろうと攻めかけたが、平氏の陣地は堅固であった。そのころ一ノ谷の館の背後に出た義経が奇襲攻撃をかけた。有名な鵯越の逆落としである。
一ノ谷をかためていた平家軍はたちまち敗れてしまった。『吾妻鏡』にはその合戦における平氏一門の戦死者は、範頼の軍勢が討ち取ったのが平通盛、忠度、経俊であり、義経の手によるものが厚敦盛、知章、業盛、盛俊であった。また安田義定の手によるものが経正、師盛、教経らの合計十人となっている。
その中で義定が討ち取った平経正は平清盛の弟経盛の嫡子、敦盛の兄、幼時、仁和寺に童行として仕え、和歌、琵琶などをよくし、その歌は新勅撰・玉葉・新拾遺などの勅撰集に六首と採られている。平家一門中あわれを知る一人であった。左兵衛、但馬守、皇宮亮正四位下にのぼった。謡曲「経政」は彼を素材とした夢幻物である。また平師盛は重盛の五男で備中守であった。
(看板資料より)


安田義定寄進の梵鐘

建久2(1191)年8月27日法光寺(現放光寺)に寄進する。現在の鐘は貞治5(1366)年に改鋳する。のちに武田信玄の時代には、この鐘を甲府躑躅ヶ崎の館に移し、武田軍の陣鐘として用いる。
(説明資料より)


甲斐源氏安田義定公廟所

安田義定略年表
1134 長承3年 3月10日義定北巨摩郡若神子に生まれる。
1147 久安3年 源頼朝生まれる。
1156 保元元年 7月11日保元の乱起こる。
1158 保元3年 1月18日義資安田庄に生まれる。義定雲光寺を開基する。
1159 平治元年 12月平治の乱起こる。
1160 永暦元年 3月頼朝伊豆に流される。
1180 治永4年 4月以仁王平氏追討の命令を諸国の源氏に出す。
8月25日義定、工藤景光らと富士北麓波志太山に平家方の俣野景久、駿河目代橘遠茂の軍を破る。
        8月頼朝石橋山で敗戦。
        9月木曽義仲挙兵
       10月頼朝の使者北条時政、甲斐逸見山に来着。参戦を要請する。
       10月20日富士川の合戦。
       10月21日義定遠江国、信義駿河国守護となる。
1181 養和元年 義定、浜名湖西岸橋本に要害構築の人夫を召集するがこれに応じないので頼朝に訴える。頼朝、義定に浅羽・相良の領地を与える。
3月13日安田義定、使者武藤五を鎌倉に送り遠江浅羽荘司宗信、相良三郎らを罰するよう要請。
        3月14日頼朝、浅羽庄司、相良三郎らの所領を義定に領掌することをやむなく認める。
        4月30日浅羽宗信、安田義定の斡旋により収公領を返給する。
1182 寿永元年 5月16日外宮禰宜為保、鎌倉に来て安田義定が遠江国鎌田の御厨を押領したことを訴える。
1183 寿永2年 7月義定、平家追討使として東海道より上京。
        8月10日安田義定、遠江守に任じ従五位下に叙任。
1184 元暦元年 1月20日安田義定、一条忠頼ら源範頼、義経と共に木曽義仲を近江粟津に滅ぼす。
        1月27日安田義定、一条忠頼、義経らの飛脚、鎌倉に参着し、義仲の追討を報告する。
        1月29日安田義定、武田有義ら甲斐源氏の面々、源範頼、源義経の軍に加わって平家追討に向かう。義貞は義経の副将であった。
        2月7日一ノ谷の合戦で戦功があり、義定は平氏の大将平経正、師盛、教経等を討ち取る。この年法光寺を建立する(現在の放光寺)。
        6月16日一条忠頼殺される。
1185 文治元年 1月義経、平氏追討のため京都をたつ。2月屋島合戦、さらに3月24日長門壇ノ浦合戦で平家滅亡。浅利与一は遠矢で敵船上の仁井紀四郎親清を射落として誉れをあげる。
        8月16日源氏一門中平家追討に功績のあった6人、加賀美遠光が信濃守、安田義資が越後守、新田義範は伊豆に、大内惟義は相模守に、足利義兼は上総介、判官義経は伊予守にそれぞれ任ぜられた。
1186 文治2年 3月9日武田信義没(59)。
1187 文治3年 8月義定京都伏見の稲荷神社の造営を命ぜられる。
1188 文治4年 5月義定厳室寺にて写経する。
1189 文治5年 4月義経衣川に没。7月藤原泰衡追討に安田義定、義資親子をはじめ甲斐源氏の面々が参加する。8月藤原氏滅ぶ。
1190 建久元年 2月義定下総守に遷任。板垣兼信隠岐国に配流。
1191 建久2年 3月6日義定遠江守に還任する。従五位上に叙せられ、禁裡守護に任ぜられる。
        8月27日義定法光寺に銅鐘を寄進する。
1192 建久3年 頼朝征夷大将軍となる。
1193 建久4年 8月頼朝は範頼を疑い伊豆に追い殺す。11月義資永福寺薬師堂供養法会で梶原景時の罠にかかり名越邸で自害する。12月5日義定、浅羽庄を没収され地頭職を免ぜられる。
1194 建久5年 8月19日義定自害(61)「尊卑分脈」によると「御甲斐国馬木庄大井窪大御室被誅了」とある。
        8月20日義定の伴類5人、鎌倉名越の辺で殺される。閏8月7日義定の屋敷を北条義時に与える。

 


1999年09月05日

武田信義の弟(実は義清の子)である安田義定によって建立されたというのがこの放光寺です。もともと訪れる予定は無かったのですが恵林寺の駐車場が混んでいたのでこちらの駐車場に車を止めたことによりその存在を知りました。恵林寺のすぐ隣にあるのですが恵林寺があまりにも有名なため、この放光寺にはほとんど人がいませんでした。静かなところで精進料理を食べさせてくれる(予約要)ことで有名だそうです。この日は法事のため拝観することはできなかった。また、黒川金山での犠牲者を鎮魂する仏像もありました。
放光寺から恵林寺に行く途中の道には脇に水路が流れていていい雰囲気の中の散歩でした。 

 

 
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