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岐阜県恵那市

飯羽間城

2014年03月22日

飯羽間遠山氏と中世の城 飯羽間城
飯羽間遠山氏は鎌倉時代に岩村遠山氏から分家して発祥した。遠山支城は18支城あるが、飯羽間城は本家岩村城に最も近く重要な城で典型的な中世の城である。
室町時代は足利将軍に出仕勤番し、直属する有力な奉公衆で「永享以来御番帳」の永享3(1431)年に遠山飯羽間宮内輔の名がある。
戦国時代は織田信長方に属し、城主遠山友信は元亀元(1570一説には元亀3)年の上村合戦(恵那郡上矢作町)に出陣したが、当時遠山一族の有力者で七遠山の一人だった。
飯羽間城の規模は大きく、山間にありながら平山城で、一の曲輪かた出曲輪も持ち、更に枝城、物見台等も多く配してあった。
飯羽間城は天正2(1574)年に武田信玄の子勝頼とその精鋭に攻撃され、織田信長から派遣されてきた14騎の武者と城兵350余人が全滅し、城主は土蔵に追い込まれて生け捕られた(甲陽軍鑑より)。
こうして飯羽間城は姿を消した。
(看板資料より)

 

 
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