|
下田歌子女史の祖父は東条琴台で、「聖世紹胤録」など多数の著述をもつ学者であり、父も岩村藩校知新館の教授をしたことがある学者の家庭に生まれ育った。女史は5才で俳句をつくり和歌を詠み7、8才にして見事な韻を踏んだ漢詩を賦し、神童と呼ばれた。
しかし、女であるため、すぐ近くにある知新館に学ぶことは許されなかった。家庭において祖母貞から読み書きの手ほどきを受け祖父と父の豊富な蔵書を読みあさって、次第に頭脳を多彩的なものとし、詩的な情操をより豊かにしていった。独学で修めた和漢学は知新館の教授も驚嘆するほどになった。
この室は父の書斎であり、女史の勉強した室である。幼い頃から女史の胸中に秘かに燃えていた炎は、女というだけで知新館へ入学できなかったという反発であった。18才で上京し、やがて実践女子学園を創立するにいたった苦難の道を進むのを支えたのは、この炎であった。
(看板資料より)
下田歌子女史略伝
下田歌子女子は安政元(1854)年に岩村藩士平尾しゅう蔵の長女としてこの地に生まれ鉐(せき)と名づけられた。明治4(1871)年、18才で父の元へ上京、翌5年に宮中の女官に登用された。宮中での歌会にいつもすぐれた和歌を詠み昭憲皇太后より歌子と名を賜った。
明治12年退官して下田猛雄と結婚したが同17年に夫が死去したので再び宮内省に出仕し、華族女学校の創立に参画、同18年に華族女学校教授となった。明治26年に欧米へ出張して女子教育を視察、同32(1899)年に実践女学校及び女子工芸学校を創設して校長となった。現実践女子学園である。同校で中国(清国)から女子留学生を多く受け入れて教育し孫文とも親交が深かった。明治40年に兼任していた学習院教授兼女子部長を勇退した。大正9年には愛国婦人会長に就任して活躍した。女史は女子教育に一生を捧げ学者であり歌人であり、社会奉仕家で意志強固、熱弁家で男子を凌ぐ明治、大正の日本未曾有のの女傑で才色兼備の女性であった。昭和11年、83才で死去した。
明治41年特旨を以って従三位勲三等に叙せられた。
(看板資料より)
|