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長野県飯山市

飯山城

2004年10月17日

城山公園案内図

飯山城見取図

長野県史跡 飯山城跡
この地は、東は千曲川に沿い、西は関田・斑尾の山地に囲まれ、越後への軍事交通の要地であった。城は独立丘陵を削りならして構築した平山城で、梯郭式に本丸、二ノ丸、三ノ丸が南北に連なり、その西側は帯郭、西郭、外郭に区画され、四周は一重の濠をめぐらす。本丸の南面は特に防備を固め、濠は広く、土塁は高く、急傾斜で、東・北・西の三面は直立に近い石垣を築く。本丸・二ノ丸、三ノ丸には城主の居館、政庁、城櫓があり、西郭は重臣の屋敷、濠外は家中屋敷、公共施設、その外側に城下町が発達していた。
この城はもと常盤牧の泉氏の居城で、のち上杉謙信の属城となり、永禄7(1564)年ごろ武田信玄の侵攻に備え、謙信の創意の縄張とさらに上杉景勝の修築による特色ある城郭で、上杉氏の信濃出陣の拠点となった。
慶長3(1598)年上杉氏の会津移封後は、関、皆川、堀、佐久間、松平、永井、青山、本多の諸氏が交替して城主となった。
(看板資料より)

本丸(葵神社)

飯山城からの千曲川

飯山城という名前はあまり聞いたことがありませんでしたが、現地の案内板によれば上杉方の城で、当時武田方に対しての最前線の拠点であったらしい。駐車場から登っていくと最初に本丸が現われ、奥に向ってだんだん下がっていき、二の丸、三の丸へと続く。各曲輪はかなり大きくて規模の大きさを感じることができるが、とにかく色々な石碑が多い。一周してきたと思いましたが戻ってきて再び案内板を見てみると井戸があることを発見し再び城に向いました。少し下がったところに井戸があってそこから弓道場を経て駐車場に出ることができました。駐車場も大きく多くの車を止めることができ、普段は飯山市民の憩いの場になっているようです。城から見えた千曲川が豊かな水をたたえて流れている風景が印象的でした。

二の丸から本丸

桜井戸跡


南中門跡

飯山城南中門跡
この遺構は、平成4(1992)年、弓道場建設に伴う調査によって発掘された。南中門跡を盛土して保存し、その上に新たに礎石、雨落溝を配して復元展示したものです。城内の門については、当時の絵図面や古文書によって存在していた場所が分かっていましたが、発掘によって礎石等が発見されたのはこの南中門が最初となりました。門の規模は、間口5間(約9メートル)、奥行2間半(約4.5メートル)で、絵図面では二層門となっています。また門全体の敷地は30.3坪(約100平方メートル)で、古文書に記載通りの広さであることも確かめられました。江戸時代の飯山城内通路は、南大手門より入り、この南中門を通って三ノ丸、二ノ丸、本丸へと登っていくのです。なお、南中門に接して番所及びかご部屋跡も発見されています。
(看板資料より)


城門

飯山城 城門
○飯山城の門
江戸時代の飯山城内には、櫓、御殿、番所などとともに15の門があった。明治5(1872)年から飯山城の取り壊しが始まり、いろいろな建物の中で城門については各地へ売却されたと伝えられている。多くの門が各地へ移設されたものと思われるが、確実に飯山城の門と言えるものは長野市に移設された南大手門、神明町の妙専寺へ移設された本丸裏門(不明門)、長野市田子へ移設された門(どこの門か不明)である。
○南条丸山家の門
ここに移築した城門は、飯山市柳原南条の丸山家に残されていた長屋門である。この門は、飯山城内のものか、上級武士の住宅の門か不明であるが、建物の部材の様式から、妙専寺山門、田子の城門と同じ作業場で製作された門と考えられ、飯山城に関係した門のひとつとする根拠は充分にある。だが、明治時代に移築された際、住居の一部に転用する大幅な改造が加えられたため、城門とすると飯山城内のどこの門に該当するのかは判明しない。
○移築復元について
この門は平成5年度に丸山家の旧住居の解体にともなって、飯山市が移築復元した。解体にあたっては家屋の柱や部材をすべて調査し、当時の材料のみを多くの部材の中から取り出した。全体規模については不明のため、当時のままの復元は不可能であった。
平成4年、弓道場の建設にともない飯山城南中門付近の発掘調査が行われ、南中門などの遺構が発見された。弓道場の前にその遺構が展示されている。今回の復元にあたっては、旧門の材料を生かしながら全体規模、構造は南中門(間口5間、奥行き2間半)に合わせて復元することとなった。飯山城取り壊しからすでに120年余の歳月が流れている。ここにはじめて飯山城にまつわる遺構が復元展示されることの意義は大きい。
(看板資料より)

 

 
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