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長野県豊田村

替佐城

2016年04月30日

本丸

替佐城址案内地図

替佐集落は飯山の南方、約2里半の位置にあり、室町時代には若槻新庄加佐郷として「市河文書」に記されている。替佐城が戦略上、重要視されたのは戦国時代末期の甲越合戦時代で、永禄年間の後半頃、上杉方の飯山城の「対の城」として、東岸の壁田城と共に、武田方によって築城あるいは修築されたものと考えられている。
里人は小幡上総介を城将と伝えており、替佐集落にはいまなお甲州に多い姓を名乗るものが多い。そして山麓には戦国時代の五輪搭・宝篋印塔などが多数存在する。東北方の壁田城との連絡はびわ島地籍からの渡し舟によったものと考えられており、その他烽火台に関連する地名として「飛山」(飛火山)があり、その呼称自体は上代におけるものであるかもしれないが、一応、替佐城との関連でも注意を引くものである。
替佐城は本丸・二の丸・三の丸と階段状に並んだ三つの郭群から成り、それぞれの郭は堀切によって区分されているが、それに多くの段郭が付属している。
替佐城について、かつて栗岩英治氏は「春日山城に近い立地は上杉方の防御線の一つであったことを思わせる」とし、その後の戦局の推移に伴って武田方が普請を加えたものと認めているが、全て切岸で囲まれた郭や広大な腰郭の存在、そして腰郭から馬出し・馬場に向かう縄張りは、やはり戦国時代末期の修築と考えられよう。
(日本城郭体系より)

本丸

替佐城址
この城は永禄7(1564)年ごろ築かれたと推定されている。北信濃の制圧をめざす武田勢とその防衛をはかる上杉勢が川中島平で激しく争った当時、武田方の前進基地として重要な役割を果した。
この城は、上杉方の拠点飯山城へ通じる谷街道(千曲川通り)を、東岸からおさえる壁田城と共に西側からおさえる城で、また永江方面を経て上杉方の国境野尻城へも備えていた。
この城は三つの曲輪(本丸、二の丸、三の丸)と、それをとりまくいくつかの帯曲輪、腰曲輪や堀切からなっている。武田氏関係の山城として戦国時代の面影をよく残しており、また、その整然とした曲輪配や規模の大きさなど北信濃でも有数の城郭である。
こうした史的価値により、その維持、保存をはかるべく昭和57年、豊田村文化財に指定された。
(看板資料より)

本丸

本丸からの二の丸

三の丸

 



2004年10月17日

替佐城址案内地図

替佐城址
この城は永禄7(1564)年ごろ築かれたと推定されている。北信濃の制圧をめざす武田勢とその防衛をはかる上杉勢が川中島平で激しく争った当時、武田方の前進基地として重要な役割を果した。
この城は、上杉方の拠点飯山城へ通じる谷街道(千曲川通り)を、東岸からおさえる壁田城と共に西側からおさえる城で、また永江方面を経て上杉方の国境野尻城へも備えていた。
この城は三つの曲輪(本丸、二の丸、三の丸)と、それをとりまくいくつかの帯曲輪、腰曲輪や堀切からなっている。武田氏関係の山城として戦国時代の面影をよく残しており、また、その整然とした曲輪配や規模の大きさなど北信濃でも有数の城郭である。
こうした史的価値により、その維持、保存をはかるべく昭和57年、豊田村文化財に指定された。
(看板資料より)


中野から野尻湖に向う途中に豊田村温泉公園と替佐城址公園の看板を発見したので看板の指示通り左折。しばらく走りましたがなかなかそれらしいところが出てこないのでひとまず温泉公園の駐車場に言ってみました。すると駐車場に替佐城の看板を発見。この近くにあるに違いない!と確信したのですがどれだか分からず露天風呂の方へ行ったりしました。しかし、温泉公園もみじ荘のおばちゃんが出てきたので替佐城の場所を聞いてみるとちょうど看板の反対側の山の頂上であることが分かりました。ずごく丁寧に行き方を教えてもらいました。温泉公園から坂を下って戻り高速道路の真下あたりを左折して、あとは道なりにどんどん上に登っていくと、少し広くなっている駐車場らしき所に到着。公衆便所もありました。ここからは徒歩で登りますがほとんど車で上まで来れてしまったので楽勝でした。

替佐城からの眺め

 
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