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群馬県東吾妻町

岩櫃城

2016年08月13日

岩櫃城は岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な中世の城であり、山頂より約200m低い場所に本丸・二の丸・中城があり、これらを中心に広い範囲で竪堀や曲輪が点在します。
岩櫃城はその築城時期や築城者については定かではありませんが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。行盛は南朝方の豪族里見氏に攻められ自害したと伝えられます。その後行盛の子、憲行が関東管領上杉氏の支援によって岩櫃城を奪回し、その後、斎藤越前守憲広(基国)まで六代にわたる東吾妻支配の本拠となりました。
戦国時代の上州は甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄6(1563)年斉藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸綱(幸隆)の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。幸綱の推挙により、武田信玄から岩櫃城代に海野長門守幸光が命ぜられ、真田の先兵となり17年の長きにわたり吾妻の地を守りました。天正9年の海野兄弟誅殺の後、岩櫃城は真田昌幸の嫡男信幸を城代とし、弟である信繁(幸村)がここで一時代を過ごしたとも言われています。
武田氏の滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占めることとなりました。
徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に伴い、慶長20(1615)年頃、真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破却し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を終えました。
(看板資料より)


岩櫃山登山口


中城跡


本丸


竪堀


二の丸から本丸


本丸から二の丸

 



2003年09月27日

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802メートル)の中腹面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄6(1563)年武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
天正2(1574)年に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正18(1590)年、北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長20年:1615)によりより四百余年の長い歴史を残しその姿を消しました。
岩櫃城由来記より

国道145号線を沼田方面から嬬恋方面に進み吾妻町役場を通過してしばらくすると右側に「岩櫃城温泉くつろぎの館」が見えます。建物がお城のようになっている健康センターみたいなところです。これが見えるとすぐに左に入る道があり岩櫃城及び岩櫃山登山の入口と書いてある大きな看板を見つけることができると思います。その先は案内板があるのでそれに従って行くと岩櫃山登山口休憩所にたどり着くことができます。その前には駐車場もあるのでそこに車を止めればOKです。

岩櫃山登山の入口

天狗の丸

岩櫃城は岩櫃山に向かう途中にあり、登山口から岩櫃城本丸までは15分くらいで行くことができます。道もきれいに整備されているので普通の運動靴でも問題ないでしょう。登山口休憩所を出発してすぐに分かれ道になっていて右方面は岩櫃山方面、左側が城跡なので左の方に進みます。すると比較的大きな道を登っていきますが途中、堀や土塁?の跡と思われるようなところを見ることができました。明るいところに出るとあとは階段を登ってしばらく進むと思ったより早く本丸等の遺構にたどり着くことができます。


岩櫃山

 
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