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山梨県甲斐市

慈照

2014年07月20日

有富山「慈照寺」は曹洞宗(禅宗)の別格地で24ヶ寺の本寺である。古くは真言の寺院であったが、室町時代の延徳元(1489)年8月開祖真翁宗見禅師(竜華院開祖桂節宗昌禅師の法嗣)によって禅寺に改めて開創した。開基は諸角豊後守昌清公で、永禄4年9月信州川中島に戦死し、その古牌を祀ってある。本尊は華厳釈迦如来で、鎌倉末期湛慶の作といわれ、両脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩。富士の霊峰と相対し眺望が極めて良い境内には、法堂、庫院、書院、衆寮、開山堂、山門など十数棟の伽藍が完備している。また、創建当初から武田氏との関係が深く、多くの重要古文書を保存している。
(看板資料より)


山門

本寺は武田氏および徳川氏の崇敬厚く、寺運の盛んな寺であった。このような背景を物語るものとして、桃山、江戸時代の優れた伽藍を残しており、この山門の外、法堂や古文書多数が県指定文化財になっている。この山門は桁行三間、梁間三間、重層入母屋造銅板葺で寛永16(1639)年に建てられたが、蟇股、木鼻実肘木等は、桃山時代の形をよく江戸初期に伝えており、建物全体の均衡もよくとれた貴重な建物である。
(看板資料より)


法堂

法堂はまた、本堂とも称され、寺院の建物の中では主要なものである。この法堂は、桁行12間、梁間8間で形式・手法から桃山時代のものと推定されている。堂内は正面入口から1間通りは土間、次の1間通りを板廊下とし、その奥を4間づつ2列・8室に仕切り、後列の中央西寄りに仏間を設け本尊を祀っている。仏間の前には大間があり、ここで法要がいとなまれる。仏間・大間の左右は、室中・客間など6室に分けられ、左端の梁行1間通りを、畳廊下とするほか、側・背の三面にはぬれ縁をめぐらした、構法の雄大な建築である。
(看板資料より)


梵鐘

規模
全高:1.38m、直径0.75m、厚さ0.09m
奉納年代
刻銘正保4庁亥歳霜月良辰(西暦1647)
本願主龍王両村諸檀那
大工相州千津島住石墟五郎右衛門重次
仝喜兵次重久
志麻荘西山郷龍王村有富山慈照寺
由緒
「修行僧の合図の鐘」「除夜の鐘」「時の記念日の鐘」として人々の心の糧となり、思い出と反省の鐘として数百年にわたり近郷住民に親しまれてきたものである。
昭和16年からの太平洋戦争中すべての金物類は軍需資材として供出され寺院の鐘も例外ではなく、その対象とされたがこの鐘は由緒ある貴重な文化財として特に供出を免除された。
(看板資料より)


竜王水は、赤坂台地の南端にある慈照寺境内に湧き出す湧泉である。慈照寺の開祖、真翁宗見禅師は、信玄堤の近くの高岩の下にあった深淵、竜王潭に住む悪竜を円頓の秘符を授けて済度した。翌日、白髪の老翁の姿に化した竜王潭の主が現れて、報恩のための礼を述べたが、その時の禅師の請いのとおりに翌朝になると本堂の前庭に清水が湧き出ていたもので、それ以来、この湧水を竜王水と呼ぶようになったという伝承がある。
この水源地は東西2.1メートル、南北1.75メートル、深さ約0.5メートルの規模であるが、湧出は豊かで絶えることなく水量を保ち、地域の重要な水源として利用されてきた。このため「竜王」の地名由来となっており、古くから由緒ある名水として知られている。
現在は、大正時代に整備されたコンクリート造擁壁で囲まれており、水面は覆屋によって保護されている。
(看板資料より)


諸角豊後守昌清公の供養塔


猫石

昔、慈照寺が貧しい寺であったころ、和尚さんが一匹の猫をかわいがって飼っていた。ある時猫は、その恩に感謝して甲府の旗本家の葬式を不思議な力によって慈照寺に呼びこみ大檀家にし、お寺繁栄の基礎をつくった。そこで和尚さんは、感心な猫の霊に感謝し境内に猫塚を建てて供養してやった。猫石は現在も墓地入口にある。
(パンフレット記載文章より)

 



2007年11月18日

諸角豊後守昌清公の供養塔

慈照寺には以前来たことがあるのですが近くまで来たので今回立ち寄ってみました。ここには開基の供養塔があるとのことでしたのでまずはそれを探してみることにしました。墓域は広くてなかなか探し出すことができませんでしたが、本堂に戻る途中で見つけることができました。その後、お話を聞きたかったのでお寺の人を訪ねてみたところ、女性の方が対応してくれました。丁寧に説明してくれたのでよく分かりました。供養塔は昭和60年頃にできたそうで、長野市にあるお墓の周辺にいる方などが中心となってここに建てられたとのことでした。諸角氏については資料が少なくこのお寺にもほとんど何も残っていないとのことでした。今まであまり有名な武将ではなかったのですが、今年の大河ドラマ「風林火山」では信繁の傅役のような立場で登場し、クローズアップされた話を聞きました。この付近に館などがあったのかどうか聞いてみましたが、ここには館はなかったようで、甲府の武田神社周辺にある館跡のうちのひとつである武田信繁公の館跡の近くだったのではないかとのことでした。

猫石

昔、慈照寺が貧しい寺であったころ、和尚さんが一匹の猫をかわいがって飼っていた。ある時猫は、その恩に感謝して甲府の旗本家の葬式を不思議な力によって慈照寺に呼びこみ大檀家にし、お寺繁栄の基礎をつくった。そこで和尚さんは、感心な猫の霊に感謝し境内に猫塚を建てて供養してやった。猫石は現在も墓地入口にある。
(パンフレット記載文章より)

 



2003年08月30日

有富山「慈照寺」は曹洞宗(禅宗)の別格地で24ヶ寺の本寺である。古くは真言の寺院であったが、室町時代の延徳元(1489)年8月開祖真翁宗見禅師(竜華院開祖桂節宗昌禅師の法嗣)によって禅寺に改めて開創した。開基は諸角豊後守昌清公で、永禄4年9月信州川中島に戦死し、その古牌を祀ってある。本尊は華厳釈迦如来で、鎌倉末期湛慶の作といわれ、両脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩。富士の霊峰と相対し眺望が極めて良い境内には、法堂、庫院、書院、衆寮、開山堂、山門など十数棟の伽藍が完備している。また、創建当初から武田氏との関係が深く、多くの重要古文書を保存している。
(看板資料より)


山門

本寺は武田氏および徳川氏の崇敬厚く、寺運の盛んな寺であった。このような背景を物語るものとして、桃山、江戸時代の優れた伽藍を残しており、この山門の外、法堂や古文書多数が県指定文化財になっている。この山門は桁行三間、梁間三間、重層入母屋造銅板葺で寛永16(1639)年に建てられたが、蟇股、木鼻実肘木等は、桃山時代の形をよく江戸初期に伝えており、建物全体の均衡もよくとれた貴重な建物である。
(看板資料より)


法堂

法堂はまた、本堂とも称され、寺院の建物の中では主要なものである。この法堂は、桁行12間、梁間8間で形式・手法から桃山時代のものと推定されている。堂内は正面入口から1間通りは土間、次の1間通りを板廊下とし、その奥を4間づつ2列・8室に仕切り、後列の中央西寄りに仏間を設け本尊を祀っている。仏間の前には大間があり、ここで法要がいとなまれる。仏間・大間の左右は、室中・客間など6室に分けられ、左端の梁行1間通りを、畳廊下とするほか、側・背の三面にはぬれ縁をめぐらした、構法の雄大な建築である。
(看板資料より)


梵鐘

規模
全高:1.38m、直径0.75m、厚さ0.09m
奉納年代
刻銘正保4庁亥歳霜月良辰(西暦1647)
本願主龍王両村諸檀那
大工相州千津島住石墟五郎右衛門重次
仝喜兵次重久
志麻荘西山郷龍王村有富山慈照寺
由緒
「修行僧の合図の鐘」「除夜の鐘」「時の記念日の鐘」として人々の心の糧となり、思い出と反省の鐘として数百年にわたり近郷住民に親しまれてきたものである。
昭和16年からの太平洋戦争中すべての金物類は軍需資材として供出され寺院の鐘も例外ではなく、その対象とされたがこの鐘は由緒ある貴重な文化財として特に供出を免除された。
(看板資料より)


竜王水は、赤坂台地の南端にある慈照寺境内に湧き出す湧泉である。慈照寺の開祖、真翁宗見禅師は、信玄堤の近くの高岩の下にあった深淵、竜王潭に住む悪竜を円頓の秘符を授けて済度した。翌日、白髪の老翁の姿に化した竜王潭の主が現れて、報恩のための礼を述べたが、その時の禅師の請いのとおりに翌朝になると本堂の前庭に清水が湧き出ていたもので、それ以来、この湧水を竜王水と呼ぶようになったという伝承がある。
この水源地は東西2.1メートル、南北1.75メートル、深さ約0.5メートルの規模であるが、湧出は豊かで絶えることなく水量を保ち、地域の重要な水源として利用されてきた。このため「竜王」の地名由来となっており、古くから由緒ある名水として知られている。
現在は、大正時代に整備されたコンクリート造擁壁で囲まれており、水面は覆屋によって保護されている。
(看板資料より)


諸角豊後守の墓

 

 
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