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愛知県新城市

亀山

2014年03月29日

虎口

天授年中(1375〜1380)上野国甘楽郡奥平郷より奥平貞俊作手に至る。作手領主山崎三郎左衛門高元を頼り鴨ヶ谷甘泉寺に寓居し、勢力人望を得て川尻城を築き更に亀山城を築きこれに移る。
初代貞俊以降2代貞久、3代貞昌、4代貞勝、5代貞能まで5代166年間この地に住し、長篠の戦の3年前天正元年8月20日、所謂田原坂石堂ヶ根の戦を最後に嫡子貞昌、信昌と共に作手を去り、貞昌は長篠の城将となって武田の若き主将勝頼と日本戦史に名を残す長篠の戦をなすに至る。
その後、信昌は新城城主となり、更に関東移封となったが、慶長7(1602)年信昌の4男松平下総守忠明(後に大阪城、姫路城の城代となる)が、作手藩1万7千石に封ぜられ城は復活したが同15年伊勢亀山城に移るに及び廃城となった。
今なお土塁には中世築城の特徴を残す奥三河屈指の城址である。
(看板資料より)

二の丸


応永31(1424)年8月、奥平貞俊が築城して、川尻城からここに移った。
其の後、貞久・貞昌・貞勝・貞脳・貞昌(信昌)の五代が居城。
天正元(1573)年8月貞能・貞昌父子は、古宮城に本拠を持つ武田勢の攻撃を受けたが、石堂ヶ根・田原坂等に転戦してこれを敗走せしめた。
天正3年、この戦功によって貞昌は織田信長から長篠城主を命ぜられた。
同年5月、長篠・設楽ヶ原の戦いが勃発、長篠城は武田勢1万5千の猛攻を受けたが、貞昌はよく籠城に堪え、織田・徳川連合軍の援軍を得て大勝した。
戦後、貞昌は信長の一字を貰い信昌と改名、新城に築城してこれに入り、家康の長女亀姫を嫁に迎えた。
慶長7(1602)年、信昌の第4子松平忠明が父祖の旧領であるこの亀山城へ、作手1万7千石の藩主として入城し8年間居城。
同15年、伊勢亀山城主として転じた。その後は元和5(1619)年頃の数年間、初期の三河代官として小川又左衛門氏綱が居城。それ以降は廃城となり現在に至っている。
(看板資料より)

西曲輪

腰曲輪

虎口




2003年10月11日


天授年中(1375〜1380)上野国甘楽郡奥平郷より奥平貞俊作手に至る。作手領主山崎三郎左衛門高元を頼り鴨ヶ谷甘泉寺に寓居し、勢力人望を得て川尻城を築き更に亀山城を築きこれに移る。
初代貞俊以降2代貞久、3代貞昌、4代貞勝、5代貞能まで5代166年間この地に住し、長篠の戦の3年前天正元年8月20日、所謂田原坂石堂ヶ根の戦を最後に嫡子貞昌、信昌と共に作手を去り、貞昌は長篠の城将となって武田の若き主将勝頼と日本戦史に名を残す長篠の戦をなすに至る。
その後、信昌は新城城主となり、更に関東移封となったが、慶長7(1602)年信昌の4男松平下総守忠明(後に大阪城、姫路城の城代となる)が、作手藩1万7千石に封ぜられ城は復活したが同15年伊勢亀山城に移るに及び廃城となった。
今なお土塁には中世築城の特徴を残す奥三河屈指の城址である。
(看板資料より)

虎口


土橋址


土橋址


虎口




西曲輪


土塁


大手址

 

 
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