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長野県松本市

苅谷原城

2014年11月16日

本丸

高白斎記によれば、武田信玄は天文22(1553)年3月29日に軍事拠点である深志城を出発し、午後には苅谷原城に着陣し、翌30日には城の周辺を放火し、4月1日の攻撃を経て2日午後には苅谷原城を落城させ、城主であった太田長門守が生け捕りになったとのこと。酉の刻(午後5時〜7時ころ)には塔原城も自落し、3日には会田虚空蔵山まで放火、更に苅谷原城を割り、夕刻には寅の方角に向って御鍬立を行い、栗原左兵衛が担当したとあります。
8日には苅谷原城を今福石見守に仰せ付けられ、15日の午前中には苅谷原城を出発し、次の攻撃目標である青柳城へ向いました。
(旧四賀村誌より)

堀切

登山口にある鳥居



2005年12月04日

高白斎記によれば、武田信玄は天文22(1553)年3月29日に軍事拠点である深志城を出発し、午後には苅谷原城に着陣し、翌30日には城の周辺を放火し、4月1日の攻撃を経て2日午後には苅谷原城を落城させ、城主であった太田長門守が生け捕りになったとのこと。酉の刻(午後5時〜7時ころ)には塔原城も自落し、3日には会田虚空蔵山まで放火、更に苅谷原城を割り、夕刻には寅の方角に向って御鍬立を行い、栗原左兵衛が担当したとあります。
8日には苅谷原城を今福石見守に仰せ付けられ、15日の午前中には苅谷原城を出発し、次の攻撃目標である青柳城へ向いました。
(旧四賀村誌より)

武田信玄が攻撃した苅谷原城というのは鷹巣根城、荒神尾(七嵐)城の両城を指し、実質的な本城は荒神尾城であったとのことです。今回訪れた鷹巣根城は苅谷原城の別名とのことなのですが、戦国時代の苅谷原城は荒神尾(七嵐)城の方だったのでしょうか?
甲陽軍鑑では、武田軍による苅谷原城攻撃の際、米倉丹後が銃丸除けの竹束の楯を使って城に迫ってことが書かれています。
この時城主であった太田弥助(太田長門守資忠)は太田道灌の一族(地元では孫ともいわれている)であり、五輪石塔が付近の洞光寺に残されています。

今回の主目的地がこの苅谷原城(鷹巣根城)でした。前回は刈谷原の集落で苅谷原城の場所を聞いてから向ったにもかかわらず、たどり着くことができませんでした。今回は事前に十分調査したのですが、どう考えても前回向った場所こそが苅谷原鷹巣根城であろうと思い、会田虚空蔵山城から刈谷原トンネルに向いました。トンネルに入る手前を左折して刈谷原の集落を通過し、前回は右に入って行ったのですが今回はそのまままっすぐ進みました。結局前回と同じ場所に出ましたがしばらく走っているとまた行き過ぎてしまうような感じだったので、前回と同じ場所に車を止めて前回と同じ場所から登り始めました。前回は途中の神社まで登って断念してしまったのですが今回はこの神社の横を通過して更に奥に進みましたが、一番高いところまで頑張って登っていくと鷹巣根城跡と書かれた木の碑がありました。この本丸と思われるところに立ってみるとただの山ではなく、周辺には意外にも帯曲輪や、掘切などの遺構が残されており驚きました。



2003年07月05日

刈谷原城跡と思われる山?

刈谷原城は地図を見ても場所が分からず、ただかろうじて刈谷原随道(トンネル)の真上に、「城山」という名前の山があったのでとりあえずそこを目指して行くことにしました。トンネルを通過して少し行ったところを右折して刈谷原の集落を通過するときに道路工事の地元のおっちゃんに場所を聞いてみたのですが、「高巣根城」という城があるらしくその城跡があると思われる山はそこから見ることができました。方向的にも多分それに間違いなさそうでしたし、そこに行けば教育委員会の看板も立っているとのことでした。道順も教えてもらったのでそのまま工事中のところを通過してどんどん進みました。途中「歴史の道:刈谷原峠に至る」と書いてある白い棒とそれらしき旧道を発見しました。(下の写真)
工事のおっちゃんの話では、まっすぐ行ったところに切通しのようなところがあって道が分かれているが左に行くと旧道の峠道で車では行かれないので、右の方に行けば行かれるとのことでした。ちょうど切り通しのようなところがあり右側の道をどんどん進みましたが、そのうち道は下りの砂利道になりました。城山と思われる山になかなか近づくことができず結局行くことはできなかったのですが、途中砂利の搬出場所から城山と思われる山の写真を撮ることしかできませんでした。そのうち道はトンネルの手前(松本側)に出てしまったので断念することにしました。

刈谷原峠に至る歴史の道

この城には太田資忠という小笠原長時の家臣がいたそうなのですが、主君小笠原長時が林城を追われた後も武田方に降伏することなく守りを固めていたそうです。
しかし真田幸隆による戸石城攻略の後、村上方の本拠地である葛尾城攻略に着手した武田方は天文22(1553)年3月29日、深志城を出発し、正午には刈谷原城に到着して城攻めを開始し、4月2日には落城させて城主太田資忠を捕らえました。その後今福石見守が城主となっています。

 

 
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