←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県松本市

洞光寺

2014年11月16日

本堂

太田弥助兄弟(中沢氏)の五輪石塔



2005年12月04日

薬師堂

旧四賀村役場(現在の松本市役所四賀支所)で四賀村誌を見せていただいたときに、洞光寺というところに苅谷原城の城主であった太田資忠の五輪石塔があると書かれていたので行ってみることにしました。四賀村誌には太田弥助兄弟(中沢氏)の五輪石塔と記載されていました。
洞光寺は刈谷原トンネルの旧四賀村側で、鷹巣根城に向う道とは反対側の道を進んでいったところにありました。

洞光寺には本堂と薬師堂(上の写真)がありましたが、薬師堂はかなり古いものだそうで竜の彫り物が残されていました。
住職の話によれば、武田信玄が攻めて来たときに洞光寺も放火されたのですが、地元に伝わる雨乞いの釣鐘を撞いたら、裏山から雨雲がわきおこりやがて大雨となって、からくも薬師堂だけは焼けずに済んだのだそうです。

太田弥助兄弟(中沢氏)の五輪石塔

五輪石塔の場所が分からなかったのでお寺を訪ねたらわざわざ住職が外に出てきてくれて石塔の場所まで来ていただいて教えてくれました。
全部で3基あり、1基は右側に単独で置かれていて(下の写真)、他の2基は並んで置かれていました(上の写真)。四賀村誌で紹介されていた写真は2基並んでいるものでした。石塔の下の部分には天文…や、太田…という文字を確認することができました。住職の話によれば太田弥助と中沢監物の石塔であるとのことでしたが、中沢監物がどんな人物かは不明でした。旧四賀村誌には太田弥助兄弟と書かれていたので兄弟だったのかもしれません。
もともとこれら石塔3基は別の場所にあったものだそうで、墓地の整備をしたときに現在の場所に移されたのだそうです。

鷹巣根城(苅谷原城)への登山口は洞光寺の裏にもあるらしく、小学校の遠足などで登ったりしたことがあったようでした。お話によればここらへんの城は狼煙台として使われていたのではないかとのことでした。

石塔を見せていただいた後、本堂で般若心経をとなえていただき、更に自家製パンやお茶を頂きながら色々なお話を聞かせていただきました。1時間以上滞在しましたが雪が降り始めてくるくらい寒く、体が冷え切ってしまいしゃべることもできなくなってしまいました。帰り際にお土産として銀杏をいただきました。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→