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長野県佐久市

笠原新三郎首塚

2014年05月03日

天文9(1540)年頃から甲斐武田氏の佐久侵入が本格的になり、佐久の地侍の大部分は同12〜13年頃までにこれに降り、同15年には内山城も落ちて、残るは志賀城だけとなった。そのため同16年閏7月には武田信玄自らが出馬して志賀城を陥落させている。
7月24日に攻撃を開始し、攻め落とすのに16〜17日を要したのである。城は笠原清繁および応援に来た上野の甘楽郡菅原城主高田憲頼父子がよく守ったので武田勢は攻めあぐんだ。
8月6日に別の道から入った上野の援軍と武田方の板垣駿河守信方らが小田井原で大合戦し、武田方は大将14〜15人、雑兵三千人を討ち取って大勝利を収めた。
敗報を聞いた志賀城の守兵は落胆しついに落城した。
この合戦の戦後処理もまた過酷で、『妙法寺記』には「シカ殿ノオカミヲハ小山田羽州給テ、(中略)去程ニ男女ヲイケトリニ被成候テ、悉甲州ヘ引越申候、去程ニ二貫三貫五貫十貫ニテモ親類アル人ハ承ヶ申候」と書いている。親類なき者は売られてしまったのであろうか。志賀本郷の東には笠原新三郎の首塚と呼ばれるものが残っている。
佐久郡内で志賀城や内山城が最後まで武田方に屈しなかったのは、志賀城における菅原城主高田憲頼のように上野勢の支援があったためでその背後には村上氏、更には上杉氏があった。
(日本城郭大系より)

 



2003年04月03日

志賀城から県道44号線(下仁田浅科線)に出て群馬県方面にしばらく行くと、県道沿いの向って左側の田んぼの中に笠原新三郎首塚があります。道沿いにはその旨の案内板もあるのですぐに分かると思います。
当時から400年以上の時がたち、色々な時代を経ているにもかかわらずこのような首塚が未だに残っていることに驚きました。

 


志賀城
笠原城
宝林寺

 

 
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