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長野県佐久市

笠原城

2003年04月03日

笠原城は、甲斐武田氏の佐久侵攻に対し、最後まで抵抗した志賀城主笠原新三郎の詰城である。天文17(1548)年武田信玄は自ら出馬して志賀城を攻めた。城主笠原新三郎および応援の上野・甘楽菅原城主高田憲頼父子は笠原城に籠ってよく守ったので、武田勢は攻めあぐんだ。しかし武田方の板垣信方らが上野の新たな援軍に対し小田井原で大合戦をして大勝利をおさめ、3000人余人を討ち取った。勇猛な笠原城兵も味方の敗報を聞き落胆し、ついに城は落ちたといわれる。
(看板資料より)

場所
大字志賀字余地ヶ入、湯之入、荷倉、大窪、地ヶ入(付ヶ字笠原含む)
構造
山城本郭、砦三ヶ所、大手門、鉄砲馬場、曲輪三ヶ所、井戸2個、物見1ヶ所
城主
笠原新三郎清繁、嫡男信繁
城兵
侍大将清水左近丞、城兵550人、城内将軍、上州菅原城主高田憲頼父子、侍大将依田左近進兵300人、上野平井郷、関東管領上杉憲政の弓の名人100人
落城
甲斐武田信玄晴信の侵攻により城兵全員斬死し落城。天文17(1548)年7月11日
(看板資料より)

看板の文章によると武田信玄が攻めて来たときに笠原新三郎清繁が高田憲頼とともにたてこもったのは志賀城ではなくこの笠原城であったと書かれていました。どちらが本当なのかは分かりませんが、笠原城はかなり大きな規模だったようです。かなり奥まで歩いて登ってみましたがその先の情報がなく、時間もなかったので今回は途中で断念することにしました。今まで笠原城という名前を聞いたことが無く今回県道を走っていて偶然案内板を見つけたわけですが、歩いてみると石垣も多く残されていて驚きました。後日是非もう一度訪れたいと思います。


志賀城
笠原新三郎首塚
宝林寺

 

 
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