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山梨県都留市

勝山城


2014年09月14日

東照権現

谷村城の要害城(非常の場合たてこもる城)として築城されたこの勝山城址には、現在なお、曲輪・堀・石垣・土塁など、多くの遺構が認められる。曲輪は山頂の平坦地(本丸跡)を中心にして、北・東・南の三方に分かれた尾根のそれぞれに配置されている。北側の尾根には、花崗岩の大石が7個残された平坦地が認められるが、ここは秋元氏の時代に幕府献上用の茶の貯蔵所(お茶壷蔵)があったと伝えられている。東側の尾根には、やはり、秋元氏の時代に焔硝蔵が置かれていたといわれている。
堀は外堀・内堀・竪堀が認められる。外堀は現在水田となっているが、幅約30メートル、高さ約20メートルで、当時は泥田堀をなしていたものと思われる。また、城のすそを南方から東流し北西に流れる桂川はまさに天然の堀をなしていたものと思われる。内堀は空堀で南側尾根から西側山腹を半周して、北側尾根まで認められる。この内堀は西側の守りを固めるために築かれたものと思われるが、連絡路・運搬路としての利用も当然考えられるものである。竪堀は北側の尾根において、稜線に交叉してつくられており、東北端は桂川に向って切り落され、西南側は下降して内堀に連なる。堀の高さは現状で約5メートル、幅は約6メートルである。
石垣は山頂北側(野づら積)と、南側頂上入口付近(打込はぎ積)において、現在も観察できるが、大部分は土中に埋れている。土塁は山頂付近、本丸の西側内堀の前面などにその痕跡を認めている。
この勝山城と、谷村城は当時内橋によって結ばれていたと伝えられているが、現在も橋桁を受ける石垣と思われる遺構が残されている。
(看板資料より)

本丸

勝山城は文禄3(1593)年に浅野左衛門佐氏重によって築城されたと「甲斐国志」に記されている。当時、甲斐国には、江戸の徳川家康に対する備えとして豊臣秀吉の一族浅野長政が配されていたが、浅野左衛門佐氏重は浅野長政の家老として、甲府城の前城となる勝山城を築城し、郡内地域の守りに当ったという。
この勝山城は居館である谷村城の要害城(非常の場合たてこもる城)としての役割を担っていたといわれ、勝山城と谷村城とは桂川を挟んで内橋で連絡されていた。本城には秋元氏の在城時に、宇治から江戸に運ばれる将軍家御用のお茶壷を保管する茶壷蔵が置かれていた。その場所は本丸の北側を下った大沢見張り台付近と推定されている。
宝永元(1740)年郡内谷村藩主秋元氏が武州(現在の埼玉県)川越に転封した後、勝山城廃城となり、郡内は天領として谷村代官の支配下に置かれた。
勝山城は近年、郡内領主小山田越中守信有が中津森の館が焼け、居館を谷村に移した時に、築城されたのではないかと考えられるようになった。小山田氏滅亡以降、城の主はめまぐるしく変わった。
(看板資料より)

二の丸

三の丸

帯郭


焔硝蔵跡


本丸下の石垣


竪堀


大沢見張台


川棚見張台


空掘



2004年12月26日

谷村町駅から見た勝山城

谷村城の要害城(非常の場合たてこもる城)として築城されたこの勝山城址には、現在なお、曲輪・堀・石垣・土塁など、多くの遺構が認められる。曲輪は山頂の平坦地(本丸跡)を中心にして、北・東・南の三方に分かれた尾根のそれぞれに配置されている。北側の尾根には、花崗岩の大石が7個残された平坦地が認められるが、ここは秋元氏の時代に幕府献上用の茶の貯蔵所(お茶壷蔵)があったと伝えられている。東側の尾根には、やはり、秋元氏の時代に焔硝蔵が置かれていたといわれている。
堀は外堀・内堀・竪堀が認められる。外堀は現在水田となっているが、幅約30メートル、高さ約20メートルで、当時は泥田堀をなしていたものと思われる。また、城のすそを南方から東流し北西に流れる桂川はまさに天然の堀をなしていたものと思われる。内堀は空堀で南側尾根から西側山腹を半周して、北側尾根まで認められる。この内堀は西側の守りを固めるために築かれたものと思われるが、連絡路・運搬路としての利用も当然考えられるものである。竪堀は北側の尾根において、稜線に交叉してつくられており、東北端は桂川に向って切り落され、西南側は下降して内堀に連なる。堀の高さは現状で約5メートル、幅は約6メートルである。
石垣は山頂北側(野づら積)と、南側頂上入口付近(打込はぎ積)において、現在も観察できるが、大部分は土中に埋れている。土塁は山頂付近、本丸の西側内堀の前面などにその痕跡を認めている。
この勝山城と、谷村城は当時内橋によって結ばれていたと伝えられているが、現在も橋桁を受ける石垣と思われる遺構が残されている。
(看板資料より)

本丸と東照大権現

勝山城は文禄3(1593)年に浅野左衛門佐氏重によって築城されたと「甲斐国志」に記されている。当時、甲斐国には、江戸の徳川家康に対する備えとして豊臣秀吉の一族浅野長政が配されていたが、浅野左衛門佐氏重は浅野長政の家老として、甲府城の前城となる勝山城を築城し、郡内地域の守りに当ったという。
この勝山城は居館である谷村城の要害城(非常の場合たてこもる城)としての役割を担っていたといわれ、勝山城と谷村城とは桂川を挟んで内橋で連絡されていた。本城には秋元氏の在城時に、宇治から江戸に運ばれる将軍家御用のお茶壷を保管する茶壷蔵が置かれていた。その場所は本丸の北側を下った大沢見張り台付近と推定されている。
宝永元(1740)年郡内谷村藩主秋元氏が武州(現在の埼玉県)川越に転封した後、勝山城廃城となり、郡内は天領として谷村代官の支配下に置かれた。
勝山城は近年、郡内領主小山田越中守信有が中津森の館が焼け、居館を谷村に移した時に、築城されたのではないかと考えられるようになった。小山田氏滅亡以降、城の主はめまぐるしく変わった。
(看板資料より)


勝山城は地図で見ると谷村町駅と都留市役所のすぐそばに位置しており、どんなところなのか楽しみにしていましたが、登ってみると鉄道との間には桂川の深い断崖が介しており謎が解けました。桂川が天然の堀になっているのです。私は南側から上りましたが他に登り口があるのかどうかは不明です。谷村町駅方面からだと看板もあるので上り口には行かれると思います。トイレもあるし車も2、3台止められる場所があります。城跡は木がきれいに切られていてはげ山のようになっているので山の地形や周りの景色を楽しむことができます。
小山田氏は中津森の館が焼けた後、谷村城に移り非常時はこの勝山城にたてこもったのです。


中津森館跡

 

 
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