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長野県長野市

葛山城

2004年05月22日

この山城は、芋井地区の地侍、葛山衆の域で、城主は落合氏であった。川中島の戦の2回目の対陣の時、上杉謙信(当時は長尾景虎)が、旭山城に対する付城として整備、拡大したものであろう。弘治3(1557)年2月15日(太陽暦3月26日)武田の大軍に攻め落とされ、たくさんの城兵が戦死した。葛山衆の多くは武田に降伏、のち上杉の家臣となって米沢に移住した。
本丸跡は山頂にあり、東西34メートル、南北23メートル、その東は斥候場と称せられ、六条の空掘がある。北は本丸直下の二の丸に続き、蔵屋敷と呼ばれる郭(曲輪)があり、炭化した米等が出土する。この方面の郭は25メートルに及ぶ。また本丸の西方にも24の郭があり、きわめて巨大な城跡である。本丸の東北の谷は姫谷と呼ばれ、落城の時、女性たちが身を投げた所といわれる。また、この城は水に乏しく米を水に見せかけて敵の目をあざむいたという。いわゆる米山城伝説が伝えられている。
(看板資料より)

本丸跡に安置されている祠

葛山城主落合備中守は、村上義清に従い越後の上杉謙信に属していた。城は上杉方の重要な前進基地であった。一方北信濃を掌中に収めようとする甲斐の武田信玄は、弘治3(1557)年2月(今の3月)、越後はまだ雪が深く上杉軍が出陣できない時期を見はからい、部下の馬場美濃守に命じ1万7千余人の大軍でこの城を攻撃した。城は高い崖の上にあり、堅固な防塁を備えており、落合備中守も勇猛にみずから進んでよく防いでいたので武田勢もやや攻めあぐむ形であった。
しかし城は水が不自由であった。城兵は敵の目にふれる崖から米を落として水は充分にあるようみせかけた。武田方は葛山の中腹にある静松寺の僧を責め城を攻める方法を問い、水利の不便を知ると水を断ち、火攻めにした。春先の風にあおられた火の勢いは山を包み、防塁は炎の中に崩れ落ちた。城兵必死の抗戦もむなしく備中守は奮戦して討死し、2月15日ついに落城した。
逃げ場を失った多くの女たちは峰の上から身を投げて死んだ。姫谷(裏の谷)と呼ばれる谷底からは、のちの世まで女の哀しい泣き声が聞かれたと里人は語り伝えている。
本丸跡には城主の嘆きを語る祠が安置され今でも周囲から焼米が掘り出されるという。
春、山頂の城跡に立てば里に遅れて散る山桜の一片に、戦国の世のならいとはいえ、滅びる者の哀れさが胸にせまってくる。
(看板資料より)


麓にあった石碑で「水神」と書かれていた。付近には井戸跡のようなものがあった。

 

 
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