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長野県長野市

大峰

2016年05月01日

永禄(1558-69)初年、甲斐の武田信玄が、飯縄山の東麓から越後の上杉謙信の軍勢が善光寺町に侵入するのを防ぐため、ここに砦を築いたのが初めである。信玄はこのほかにもすぐ西側にそびえる葛山、裾花川を越えて南方の旭山にも砦を築いた。
川中島の合戦は、天文22(1553)年より永禄7(1564)年まで5回にわたって争われたが、永禄4年の第4回目の合戦が最大の激戦であった。この間大峰城をはじめ付近の砦は、ある時期は武田方に、ある時は上杉方に占領された。
城の規模は山頂に本丸を設け、その西北には二の丸、三の丸が続き、各曲輪は尾根伝いに堀切によって区画されている。本丸は周囲に高い土塁をめぐらしていた。城址からは眼下に長野の街並み、それを越えて川中島の古戦場が一望される。
(日本城郭全集より)

大峰城は武田方の旭山城の向城として上杉方が築いた山城で、葛山城主落合備中守の家臣大峰蔵人の城といわれ、築城時期は明確ではありませんが、天文年間初期と思われます。
天文22(1553)年から5回にわたる川中島合戦で、大峰城を中心とする山城は甲越双方にとって最前線の突破口として、また守備陣地として重要であったため幾度か争奪戦が行われ、善光寺平一帯は武田方の支配下となり、大峰城も武田方のものとなりました。
今の大峰城はもとの本丸に昭和37年に築かれたもので入母屋殿館造り鉄筋コンクリート重層4階建てです。城内はチョウや昆虫の標本と築城時の出土品が展示され、4階の展望台からは川中島合戦の善光寺平が一望できます。
(看板資料より)

この城跡は山の尾根を利用したもので、大峰山最高峰(828メートル)に本丸を設け、その西北に二の丸、三の丸が続き、各丸は尾根に直角に切り割った深い堀切によって区画されています。各丸の西北端には土塁を築き上げて内部を隠した跡が残り、本丸跡は形で周囲に高く厚い堅固な土塁を廻らしている。本丸南西の一段低い所は曲輪の跡で、これに続いて本丸の廻りに帯曲輪と考えられるものが二の丸まで延びています。
(看板資料より)

 



2004年05月22日

大峰城は武田方の旭山城の向城として上杉方が築いた山城で、葛山城主落合備中守の家臣大峰蔵人の城といわれ、築城時期は明確ではありませんが、天文年間初期と思われます。
天文22(1553)年から5回にわたる川中島合戦で、大峰城を中心とする山城は甲越双方にとって最前線の突破口として、また守備陣地として重要であったため幾度か争奪戦が行われ、善光寺平一帯は武田方の支配下となり、大峰城も武田方のものとなりました。
今の大峰城はもとの本丸に昭和37年に築かれたもので入母屋殿館造り鉄筋コンクリート重層4階建てです。城内はチョウや昆虫の標本と築城時の出土品が展示され、4階の展望台からは川中島合戦の善光寺平が一望できます。
(看板資料より)

この城跡は山の尾根を利用したもので、大峰山最高峰(828メートル)に本丸を設け、その西北に二の丸、三の丸が続き、各丸は尾根に直角に切り割った深い堀切によって区画されています。各丸の西北端には土塁を築き上げて内部を隠した跡が残り、本丸跡は形で周囲に高く厚い堅固な土塁を廻らしている。本丸南西の一段低い所は曲輪の跡で、これに続いて本丸の廻りに帯曲輪と考えられるものが二の丸まで延びています。
(看板資料より)

 

 
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