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山梨県都留市

桂林寺


2014年09月14日

薬師堂

小山田家伝世の板碑
関東系の緑泥片岩を用いた板碑で、頭部は山形で、身部には上部に本尊の種字キリーク(阿弥陀如来)、下部には紀年銘「応永2(1395)年3月15日」が刻まれている。室町時代初期の貴重な板碑である。
本板碑は、中世期に小山田家によって桂林寺に造立され、祀られていたもので、戦国時代末の混乱期に小山田家の管理下におかれ現在に至ったと伝えられる。
(看板資料より)


郡内小山田家墳墓跡地
当冨春山桂林寺は、寺記並びに郡内小山田氏系図によると、小山田出羽守信澄(号冨春)が、応永のはじめ(1400年頃)母(武田氏)の孝養のために、旧居を寄進し、鎌倉から格智禅師を招いて開山したと伝えられる。寺はかって広い寺領と多くの末寺、塔頭を有した大寺院であった。
此地は、小山田別当有重の第4子で、郡内の惣領を立てた六郎行幸に始まる郡内小山田家の墳墓の跡で、江戸時代初期一時衰微したが、その後子孫達の手によって、現在の墓誌群が再興され、今日に至っている。当寺にのみ残る小山田家の法名は次の各代である。
元享院殿前法院一圭宗徳 六代  出羽守信膳
住法院殿円外浄心    七代  兵部小輔信恵
桂林寺殿桂堂香公    八代  出羽守信澄
東陽院殿功岩永公    九代  出羽守朝信
冨春寺殿功用勲公    十代  備中守信美(九代弟)
福聚院殿徹山道隆    十四代 山城守信隆
また寺宝の如来像は十一代信実(儀山)十二代信光(了円)父子の寄進したものである。
この他、当寺を手厚く保護した、
桂山存心        十五代 越中守信有
桃隠源公        十六代 出羽守信有
実山宗悟        十七代 出羽守信茂
などの法名と、子孫達の江戸期の法名が若干残されている。
(看板資料より) 



2004年12月26日

小山田家伝世の板碑
関東系の緑泥片岩を用いた板碑で、頭部は山形で、身部には上部に本尊の種字キリーク(阿弥陀如来)、下部には紀年銘「応永2(1395)年3月15日」が刻まれている。室町時代初期の貴重な板碑である。
本板碑は、中世期に小山田家によって桂林寺に造立され、祀られていたもので、戦国時代末の混乱期に小山田家の管理下におかれ現在に至ったと伝えられる。
(看板資料より)

郡内小山田家墳墓跡地
当冨春山桂林寺は、寺記並びに郡内小山田氏系図によると、小山田出羽守信澄(号冨春)が、応永のはじめ(1400年頃)母(武田氏)の孝養のために、旧居を寄進し、鎌倉から格智禅師を招いて開山したと伝えられる。寺はかって広い寺領と多くの末寺、塔頭を有した大寺院であった。
此地は、小山田別当有重の第4子で、郡内の惣領を立てた六郎行幸に始まる郡内小山田家の墳墓の跡で、江戸時代初期一時衰微したが、その後子孫達の手によって、現在の墓誌群が再興され、今日に至っている。当寺にのみ残る小山田家の法名は次の各代である。
元享院殿前法院一圭宗徳 六代  出羽守信膳
住法院殿円外浄心    七代  兵部小輔信恵
桂林寺殿桂堂香公    八代  出羽守信澄
東陽院殿功岩永公    九代  出羽守朝信
冨春寺殿功用勲公    十代  備中守信美(九代弟)
福聚院殿徹山道隆    十四代 山城守信隆
また寺宝の如来像は十一代信実(儀山)十二代信光(了円)父子の寄進したものである。
この他、当寺を手厚く保護した、
桂山存心        十五代 越中守信有
桃隠源公        十六代 出羽守信有
実山宗悟        十七代 出羽守信茂
などの法名と、子孫達の江戸期の法名が若干残されている。
(看板資料より)

 

桂林寺には小山田家の墓があるということだったので寄ってみました。本堂のすぐ横に郡内小山田家墳墓跡地がありました。話によれば以前はもっと奥にあったものを子孫の方がこの地に移してきたものなのだそうです。

 


小山田信茂の首塚
首塚

 

 
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