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静岡県本川根町

小長谷城

2008年03月22日

「小長谷城」は「小長井城」または「徳谷城」とも呼ばれ、中世にこの地に居住した武将小長谷(井)氏の居城と伝えられています。築城年代その他の史実は明確ではありませんが、現在残されている遺構は室町時代中期(15世紀ごろ)以降のものであろうと推定されます。
小長谷(井)氏は、今川氏が駿河守護大名として一帯を支配していた頃今川家に属していました。しかしその後永禄11(1568)年武田信玄の駿河侵攻により、武田方に降り武田氏の指揮下のもとに城の大改造が行われ、天正10(1582)年武田氏滅亡の頃と前後して、当寺の城主長門守政房によって廃城になったものと推測されております。
小長谷城は城郭の種類としては規模はそれほど大きくはないが、山地を利用した三段の曲輪配置は、中世城郭の平山城に属し、大井川上流地域における歴史を物語る城郭の遺構として高く評価されております。
■位置
現在の遺構は徳谷神社境内地(約14,000u)である。B&G本川根海洋センター敷地も、その城域であったが、敷地内の堀は埋められた。
■空掘
一号堀から五号堀まで残っており、とくに三号堀と四号堀は武田氏による改築が行われ、これが甲州流築城術の証である。
■本丸・二の丸・三の丸・曲輪
神社の鳥居から社殿にかけて三段の曲輪があり、一番奥が本丸、次が二の丸、三の丸と呼ぶべきであろう。左手には付属の曲輪一、二がある。
■土塁
本丸・二の丸・三の丸・付属曲輪を仕切る土塁を設け、さらにこれらを囲む土塁があり見事な遺構をとどめている。
■井戸跡
直径1.3m、深さは埋没してよく判らない。江戸末期に著された「波摩都豆羅」と「駿河志料」に、この「古井戸」が記録されている。
(看板資料より)

徳谷神社(本丸跡)

徳谷神社略記
創建年代は不祥なるも元和5(1620)年に再建した。元は牛頭天王と称え藤川字古社に鎮座のところ、元和5年に現在の小長谷城址に遷座した。領主の小長谷長門守一族が滅びて武田氏の領土となって徳谷天王と唱えていたが、明治3年4月徳谷神社と改称された。
(看板資料より)

一号堀

本川根町のB&G海洋センターを目指していくと分かりやすいと思います。城跡は現在は徳谷神社になっていますが、当寺の城は現在の徳谷神社と隣のB&G海洋センターにまたがる規模のものだったようです。古井戸や土塁跡などが残されていてちゃんと説明もありましたが圧巻は堀です。1号堀から5号堀まであってどれも規模が大きくて深い堀でした。説明文によれば、特に3号堀と4号堀は武田氏による改築が行われていて甲州流築城の証になっているとのことでした。

二号堀

三号堀

五号堀


古井戸

小長谷城「古井戸」について
桑原黙斎(明和3年・1776〜天保3年・1832,島田出身)著の「大井河源紀行文(1812年紀行の波摩都豆羅)」に「…此澤鳴澤と呼。泉の源は岸村の杉山の奥より出るなり。此坂右に廻れば、傍に花表(鳥居)あり。此地は是古城跡にて、むかし小長谷氏の拠れる所なり。彼花表の内に入りて見れば、牛頭天王の社なり。岸・田代・藤川の惣鎮守とかや、社の棟に七曜或は瓜の内に橘の紋を打たり。賽謁して所々見廻りしに、右手一重の外入口より右の方に古筒井(井戸)の跡あり。臨見るに、中央埋けれどもじょう揚たる石垣損せず…」とあります。
上記の紀行文によるとこの井戸は、文化9(1812)年当時、既に古井戸であった事になります。実に永い歴史をもった文化的に価値ある貴重な遺産であると言えます。
(看板資料より)

 

 
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