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長野県佐久市

前山城

2014年05月02日

本丸

前山城跡は、蓼科山の一支脈突端に位置し、本丸、二ノ丸、三ノ丸がほぼ一線につらなっている。北方は断崖の下を中沢川が流れ、東、南の二方は急傾斜で曲輪を設け、さらに屋根筋は堀切りによって防御線を構成している。
鎌倉、室町の料時代を通じて、佐久郡西部に威をふるった伴野氏は、伴野庄の地頭として当初は野沢館に拠ったが、室町中期にいたって、詰めの城として前山城を構築し、後には本拠をこの城に移した。
天正10(1582)年、前山城は芦田信蕃に攻められ、城将伴野信守は討死し、兵火に焼かれて落城した。城跡は今もほぼ旧態を完全にとどめているうえ、焼米その他の遺物が所どころから出土する。
(看板資料より) 

本丸から浅間山方面

『高白斎記』によれば天文17(1548)年9月、武田晴信は「従諏訪向佐久郡前山被出御馬(中略)11日、辰刻打立臼田、大雨、前山責落ス、敵数百人被為討取」、続いて21日には城之普請を開始している。以降武田氏はここを佐久の有力な基地とし、伴野氏は武田氏に従った。
天正10(1582)年に武田氏が滅亡すると、前山城の伴野氏は北条氏に与していたが、佐久の平定を目指す徳川家康の麾下依田信蕃は真田昌幸の協力を得て諸城を攻略し、「前山と申城、右衛門佐(信蕃)責取申、則午霜月、右衛門佐も芦田小屋を罷出候得、前山之城移」と『依田記』は書いている。
(日本城郭大系より)

本丸(東の郭より)

本丸(二の丸より)

城の軸は概ね東北から西南に延び、北側は比高40mほどの崖をなして、その下を北沢川が流れる。本丸から西南へ一段下がって二の丸・一郭と堀切があって三の丸に続き、その外側に土塁・堀切があり、更に60mほどの所に二重の堀切を築いて備えとしている。
水の手はこの二重の掘切の南側、御水神様と呼ばれるところにあった。城域には若宮八幡宮と諏訪社を合祀する伴野神社があり、その隣に前山寺がある。この寺の近くに「閉めずの門」というのがあったと伝えられ、また薬師堂付近には伝説的に伴野城の四天王墓といわれるものがある。
(日本城郭大系より)

前山城跡堀切跡

三の丸西の掘切



2003年09月23日

前山城跡は、蓼科山の一支脈突端に位置し、本丸、二ノ丸、三ノ丸がほぼ一線につらなっている。北方は断崖の下を中沢川が流れ、東、南の二方は急傾斜で曲輪を設け、さらに屋根筋は堀切りによって防御線を構成している。
鎌倉、室町の料時代を通じて、佐久郡西部に威をふるった伴野氏は、伴野庄の地頭として当初は野沢館に拠ったが、室町中期にいたって、詰めの城として前山城を構築し、後には本拠をこの城に移した。
天正10(1582)年、前山城は芦田信蕃に攻められ、城将伴野信守は討死し、兵火に焼かれて落城した。城跡は今もほぼ旧態を完全にとどめているうえ、焼米その他の遺物が所どころから出土する。
(看板資料より)

前山城を探している最中におじちゃんに聞いたのですが前山城周辺にはいくつかの小さな出城のようなものがあるとのことで、ちょうど話をしていたところも昔の出城だったところだそうです。前山城の場所は事前に佐久市役所の方に地図を郵送しておいてもらっていたのでそれを頼りに進んだのですが、ちょうど道路を掃除していたおじいさんに道を聞いたところ、前山寺を通り過ぎ更にどんどん進むとほとんど車で上まで登ることができると聞きその通り進みましたが失敗。結局、前山地区運動公園の前に車を止めさせてもらいそこから歩くことにしました。おじちゃんのアドバイス通り、それなりの靴を用意すべきですね。登り始めれば途中リンゴ畑の中を通り、10分もかからずに登ることができます。本丸の奥には堀切跡があってその先には上からロープが垂れ下がっているのでそれを頼りに登ると棒が打ち込まれていて何かが書かれていましたがもう読めなくなっています。私が帰ろうとしたら本丸の裏側から地元の子供達が登ってきました。裏の道を下るとどこに行くのか彼らに聞いてみましたがよく分からなかったので登ってきた道を下ることにしました。リンゴと浅間山がきれいに見えました。

前山城は信玄の佐久攻略の拠点になったところで、天文15(1546)年、内山城にこもる大井貞隆の子の貞清を攻める際に前山城に入っている。

前山城跡堀切跡

前山城から見える浅間山とリンゴ

前山城への登り口

 
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