←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県佐久市

内山

2014年05月03日

本丸

内山城は、永正年間(1504〜1521)に大井美作入道玄岑が築城したと思われる。その後天文15年(1546)年に武田信玄は佐久の諸城を奪って上原伊賀守昌辰を配した。天文17(1548)年、佐久に侵入した村上義清の軍としばらく攻防戦が続いたが、信玄自信が諏訪から佐久へ出馬しこれを退けた。
天正10(1582)年に武田氏が滅亡し、佐久の諸城が次々と徳川氏の手に帰していくなかで内山城も同11年に家康の麾下依田信蕃らの手によって攻略された。比高80メートルに及ぶ断崖上にあるお城の縄張りは比較的よく保存されており、石塁も各所に残っている。ほぼ三角状をした本丸の北に一段ずつさがって二の丸、三の丸が続き、更に小さく築かれたいくつかの郭を経て、掘切、水の手がある。
(看板資料より)

本丸に祭られている祠

内山は中世初期、平賀郷内に属し、平賀氏の支配下にあったが、文安3(1446)年頃、平賀氏が滅亡した後は大井庄地頭大井氏の手に移り、永正年間(1504-21)頃には大井(内山)美作、続いて大井小次郎隆景が在城した。
天文15(1546)年に武田信玄は佐久の諸城を奪って、内山城に上原(小山田)伊賀守を配した。上原らは上野から内山峠を越えて侵入して来た上杉憲政の軍を城に迎え、機をみて一気に出撃し、寡兵よく大軍を撃破したという話が伝えられている。
天文17(1548)年4月、佐久に侵入した村上義清の軍は「動内山宿城、過半放火」(『高白斎記』)し、しばらく攻防戦が続けられたが、同年9月には信玄自身が諏訪から佐久へ出馬し、ようやくこれを退けた。その後、同20年には以前の城主大井貞清が信玄に従って内山城主に復し、永禄7(1564)年には小山田玄怡が在城した。
(日本城郭大系より)

二の丸下の石塁

天正10(1582)年に武田氏が滅亡し、佐久の諸城は次々と徳川氏の手に帰していく中で、内山城も同11年に家康の麾下依田信蕃らの手によって攻略され、城将小山田六左衛門は関東に去った。
比高80mに及ぶ断崖上にある城の縄張りは比較的良く保存されており、石塁も各所に残っている。ほぼ三角状をした本丸の北に一段ずつ下がって二の丸・三の丸が続き、更に急斜面に小さく築かれた幾つかの郭を経て堀切・水の手がある。
本丸の東側に比較的広い郭が4つほど構えられておりその三方は断崖となる。断崖下には長さ70m、幅20mの馬場ノ平と呼ばれる馬場跡があり、そこからなだらかに下って内山本郷の集落となる。
(日本城郭大系より)

二の丸



2003年06月29日

内山城は、永正年間(1504〜1521)に大井美作入道玄岑が築城したと思われる。その後天文15年(1546)年に武田信玄は佐久の諸城を奪って上原伊賀守昌辰を配した。天文17(1548)年、佐久に侵入した村上義清の軍としばらく攻防戦が続いたが、信玄自信が諏訪から佐久へ出馬しこれを退けた。
天正10(1582)年に武田氏が滅亡し、佐久の諸城が次々と徳川氏の手に帰していくなかで内山城も同11年に家康の麾下依田信蕃らの手によって攻略された。比高80メートルに及ぶ断崖上にあるお城の縄張りは比較的よく保存されており、石塁も各所に残っている。ほぼ三角状をした本丸の北に一段ずつさがって二の丸、三の丸が続き、更に小さく築かれたいくつかの郭を経て、掘切、水の手がある。
(看板資料より)


本丸

内山城へ行くには園城寺というお寺を目指せばOKです。お寺の駐車場に車を止めて、案内板に従っていけばいいのですがここの案内板は少し分かりづらいです。迷ったら右へ右へと回り込むようにすればそのうち青い案内板が出てくるのでそれに従えば行かれると思います。

二の丸

本丸の手前に二の丸、三の丸の案内板がありますが、それにしては規模も小さくなんだか少し怪しいような気がしました。本丸の奥にはもっと大きな曲輪があるのですが。。。

三の丸


本丸からの景色

ここは特に疲れましたがその分本丸からの景色も最高でした。近くに国際射撃場があるらしく鉄砲の音?らしき音が聞こえてくるのでなんだか包囲されて攻められているような気分になってしまいました。


正安寺

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→