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富山県魚津市

松倉城

2006年05月04日

富山さくらの名所
松倉城跡
松倉城跡は魚津市の南部、標高430mの鹿熊にある県内最大級の山城跡です。松倉城跡のサクラは、昭和の初めに植えられたヤマザクラ111本が始まりです。城跡へつづく階段を登りきると、一帯がサクラで彩られています。植えてから約70年あまりが過ぎた現在では40本ほどが残っています。
県内ではヤマザクラをこれほどまとまった形で見られる場所は他にはありません。ヤマザクラは、ソメイヨシノと異なり派手さはありませんが、城跡にふさわしく落ちつきのあるサクラを楽しめます。
(看板資料より)

松倉城之想像図

松倉城跡は、南北朝から戦国時代末期の山城で、規模は富山県で最大級といわれており、新川地方の軍事的・政治的中心として栄えた。本丸は標高418.5mで眺望が良い。
(看板資料より)

富山県指定文化財 松倉城
松倉城は標高約430メートルの城山に築かれた山城で、山頂部には空堀で区切られた5つの曲輪が南北に並び、その周辺部には多数の平坦地や空堀などが設けられており、長さが1kmにも及ぶ巨大な城郭である。
松倉城跡の周囲には支城や砦跡と考えられる遺構が十数箇所発見されており、越中で最大規模といわれている。
築城は南北朝期の14世紀前半と推定され、幾多の武将がこの城をめぐって戦をくり返した。
戦国末期には椎名氏の居城となったが、越後の上杉氏によって攻め落とされ、魚津城が新川地方の中心となってからは、政治的、軍事的役割は低下した。松倉城の繁栄は、背後にひかえる松倉金山の経済力が大きかったと考えられている。
(看板資料より)

松倉城塁群について
松倉城跡の周辺には、多くの山城や砦跡などが確認されており、広域な城塁群を形成しています。この城山のふもとを流れる角川流域(鹿熊地区)には、館や寺院、町屋(集落)が広がっていたと考えられます。
(看板資料より)

松倉城跡の構造について
細長い屋根上に、空堀で仕切られた郭(曲輪)を連続して設けた連郭式の山城です。空掘の深さは、主郭(本丸)と二の曲輪の間が5m程の深さで、ニの曲輪と三の曲輪の間が深い方で5m程、三の曲輪と四の曲輪の間は10m近い深さとなります。土塁は三、四の曲輪でそれぞれ設けられ、主また主郭の一部には石積みも見られます。城山の中腹、鹿熊集落側には大見城平と呼ばれる幾つもの平坦面と出入り口部には石組の門が築かれています。本丸・二の丸の曲輪間の空掘や大見城平では、発掘調査が実施され、当時の生活道具などが多数出土しました。
(看板資料より)

戦国時代、越中は神保氏と椎名氏により二分されていましたが、武田信玄は神保氏を誘い込んで松倉城の椎名氏を攻めました。このとき松倉城の椎名康胤は上杉謙信に助けを求めて逆に神保長職を越中から駆逐してしまいます。
またその後、今度は松倉城の椎名康胤も武田信玄に誘われて自立し上杉に対抗しますが、後に上杉謙信により松倉城は落とされてしまいます。
武田軍団の越中先方衆として松倉城の椎名康胤の名前を確認することができます。ほんの一時期だったのかもしれませんが松倉城は武田の支配下もしくは同盟地域だったのかもしれません。

かなり標高が高いですがほとんど頂上まで車で行くことができます。もちろん途中から歩いて行くための遊歩道の入口もあるので汗をかいてハイキングを楽しむこともできます。
駐車場から階段を登っていくと道が2又に分かれていますが、右に行くと本丸、左に行くと二の丸、三の丸に続きます。
本丸の一番奥には大きな岩があって、詳細な案内板もありました。ここから南側を見渡すと富山平野が一望でき、北側には雪に覆われた山が見え、素晴らしい景色を楽しむことができました。三の丸への行き方が良く分からず、本丸と二の丸に行ってみましたが、二の丸には土塁などの遺構も残っていました。

 

 
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