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愛知県東栄町

望月右近太夫義勝公祭祠

2008年03月16日

望月峠の近くに望月右近太夫義勝公の祠があるとのことで今回立ち寄りました。最初は豊根村役場に寄って望月峠の祠について聞いてみたのですが、それは教育委員会で聞いて欲しいが今日は日曜日なので誰もいないとのことでした。しかたなくそのまま望月峠を目指しました。峠には御園トンネルがあり、望月峠はそこから少し離れたところにあるようでした。トンネル周辺を調査しましたが、中部電力の道?が1本あっただけでどうしてもそれらしいものを見つけることはできませんでした。半ばあきらめてトンネルを越えて東栄町側に少し下ったところで老人がいたので望月さんの祠までの行きかたを聞いてみました。すると道路で行くには道が荒れているし、歩いていくのがいいとアドバイス頂きました。神社から先は道標があるとのことでしたのでそこから上に登って行きました。しかしなかなか登り口を見つけることができませんでした。そして神社と水道施設の間に登山道入口の小さい看板を見つけたのでそこから登ってみることにしました。念のため熊除けの鈴を鳴らしながら登りました。10時に出発して10分ほど登ると広いところに出ました。熊出没注意の看板がありました。熊には注意が必要です。左側には登山道が続いていましたが、右側には望月右近太夫義勝公祭祠入口と書かれた木片があり、道があったのでその先に進んでみました。しばらく歩くとすぐに祠を見つけることができました。帰路は荒れた道路を降っていったところ、先ほどの中部電力の道に出ました。

その後、東栄町役場に寄って望月右近太夫義勝公祭祠について聞いてみたところ、教育委員会の人を紹介してくれました。少し離れた場所でしたが運良く今日は人がいて、親切に対応して頂きました。
望月峠の民話をコピーしていただいたり、地元の言い伝えのデータベース?を検索して印刷してくれました。その他に町誌も見せてもらいました。内容は長篠合戦余話に書かれているものと大体似通っていました。

天正3年5月、長篠合戦に敗れた武田軍の望月右近太夫義勝(勝頼の伯父という)は逃れて、22日御園まで来た。空腹に堪えかね、民家で食を求めた。老婆が「貧家のことで口に合う食べ物もない。大豆ぐらいならあるが」と煎り豆を出す。義勝は小柄で皮をむいて食べた。そして信濃への道を聞いた。老婆は「きっと名のある落ち人にちがいない討ち取って恩賞にあやかろう」と違う道を教え、このことを村人に告げた。村人は竹槍で包囲する。義勝は逃れ得ぬことを知り、大唱して「竹槍を以って我を囲むのは愚なリ。速やかにわがこの刀を以って斬るべし。我は信濃の産、願わくば死後は信州風の吹き来る所に葬るべし。さすれば、この後仇することはあるまじ」と言い放つ。
「仇なれや長篠に留めはせで御園の草の露と消ゆとは」と辞世し、自ら割腹し、自若として死についた。死骸は当百姓の家の傍らに埋め、大小その他、小遣い銭などを奪った。その後寛永に至って子孫に祟りがあるので信州風の吹く御園峠に小祠を建てて祭った。また刀は無銘だが、名刀で祟りを恐れ、氏神熊野神社に奉納して現在に至る。
(北設楽郡史より)

 

 
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