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長野県茅野市

神長官守矢資料館

2014年05月18日

神長守矢家祈祷殿
守矢家の祖先は諏訪大明神建御名方命入諏以前からの土着の神といわれ、古代以降上社大祝を補佐し、上社五官の筆頭として代々祈祷と政務事務を掌握してきた家柄である。現在同邸内には祈祷殿のほか、旧祈祷殿遺跡・御頭役郷庄の精進屋遺跡・御頭みさく神・勅使殿等がある。神長官家の祈祷は一子相伝で、神長以外他の何人もたずさわるを許されず、神長が祈祷殿に籠って祈祷調伏した記録が「満実書留」(守矢文書)に数多くみえており、また守矢頼真が後年、長坂筑後守に与えた書状には「殊更壬虎九月廿四日ニ御願書御越候 神長1人にて終夜御祈誓申候處其儘御祈祷相叶候」と記されており、これにより、神長官守矢頼真が天文11(1542)年9月24日、武田晴信(信玄)のために祈祷殿に籠って戦勝祈願を行い、高遠頼継の率いる高遠勢の調伏があったことを裏付けている。
(看板資料より)

守矢家について
今から千五、六百年の昔、大和朝廷の力が諏訪の地におよび以前からいた土着部族の族長で曳矢神と呼ばれ、現在の守屋山を神の山としていた。しかし出雲より進攻した建御名方命に天龍川の戦に破れ、建御名方命を諏訪明神として祭り、自らは筆頭神官つまり神長官となった。中央勢力に破れたものの祭祀の実権を握り、守屋山に座します神の声を聴いたり山から神を降ろしたりする力は守矢氏のみが明治維新の時まで持ち続けた。この資料館はそうした守矢家が伝えてきた古文書などの歴史資料を78代守矢早苗氏より茅野市が寄託を受け地域の文化発展に資するために建設された。
(展示室内記載文章より)


御頭祭の復元展示
諏訪大社の祭祀の中心をなすのが前宮で行われる御頭祭(現・酉の祭)で春先神前に75頭の鹿をはじめ魚・鳥・獣の肉を山のように盛り上げ酒を献じ、かがり火に照らされながら神と人が一体になって饗宴を催うした。この展示は江戸時代中期の様子の一部で天明4(1784)年3月6日に御頭祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに復原した。
(展示室内記載文章より)


神長官邸のみさく神境内社叢

2本のカジノキは、それぞれ、およそ100年・40年の樹齢と推定される。植樹されたものであるが、諏訪大社の神紋をもつ樹種で、当地方としては珍しく、また、貴重である。カヤ・クリも市内では大きい方であり、古い由緒をもつ当社を象徴する社叢として保存の価値を認めるものである。みさく神は、諏訪社の原始信仰として、古来専ら神長官の掌る神といわれ、中世の文献「年内神事次第旧記」・「諏訪御符礼之古書」には「前宮二十の御左口神勧請・御左口神配申紙は紙長の役なり。」とある。このみさく神は、御頭みさく神ともよばれ、諏訪地方みさく神祭祀の中枢として重んぜられてきている。
(看板資料より)


大祝諏訪家墓所

 



2007年04月15日

神長官は「じんちょうかん」と読むということを今回初めて知りました。神長官というのは諏訪大社の筆頭神官のことで代々守矢氏が一子相伝で努めてきたとのことです。武田信玄の時代の神長官は守矢頼真、信実で、武田軍のために戦勝祈願を行い武田家の信頼を得ていたようです。
4月14日から6月3日までの間「諏訪と武田信玄」という企画展示をしているとのことでちょうどいいタイミングで訪れることができました。更に私が訪れた日はちょうど御頭祭が行われる日とのことでした。御頭祭というのは諏訪地方では御柱祭りに次ぐ重要なお祭であるとのことでした。私のほかにも訪れていた人たちは皆さんこのお祭を見るために来たのだそうです。
御頭祭というのは神様へのお供え物に鹿や猪等の頭をはじめ、兎の串刺し、猪の頭皮、鹿の肉と脳味噌の和え物である脳和、鹿や兎の肉を煮て味付けしたものなどが供えられるのだそうです。昔は本物だったのでしょうが、今は剥製を使っているとのことでした。
諏訪大社というのは、諏訪上社と下社があり、上社には本宮と前宮があり、下社には春宮と秋宮があります。御頭際はそのうちの上社のお祭とのことで、本宮から前宮まで行列が移動するのだそうです。そしてこの守矢資料館がちょうどその中間地点になるのだそうです。お昼ころに上社本宮を出発して13時ころには上社前宮に来るとのことでした。私が訪れたのは10時半くらいでしたのでお昼までにはまだ時間もあるし、お祭を見るのは断念しました。


神長守矢家祈祷殿

守矢家の祖先は諏訪大明神建御名方命入諏以前からの土着の神といわれ、古代以降上社大祝を補佐し、上社五官の筆頭として代々祈祷と政務事務を掌握してきた家柄である。現在同邸内には祈祷殿のほか、旧祈祷殿遺跡・御頭役郷庄の精進屋遺跡・御頭みさく神・勅使殿等がある。神長官家の祈祷は一子相伝で、神長以外他の何人もたずさわるを許されず、神長が祈祷殿に籠って祈祷調伏した記録が「満実書留」(守矢文書)に数多くみえており、また守矢頼真が後年、長坂筑後守に与えた書状には「殊更壬虎九月廿四日ニ御願書御越候 神長1人にて終夜御祈誓申候處其儘御祈祷相叶候」と記されており、これにより、神長官守矢頼真が天文11(1542)年9月24日、武田晴信(信玄)のために祈祷殿に籠って戦勝祈願を行い、高遠頼継の率いる高遠勢の調伏があったことを裏付けている。
(看板資料より)


御頭祭で使用されていたもの紹介する展示を見てから、その奥では「諏訪と武田信玄」の企画展示で展示されている古文書を見せてもらいました。そのうち特に以下の3点について詳しく説明してもらいました。
@守矢頼真書留
守矢頼真書留は守矢頼真が書き留めた記録で天文11(1542)年に武田晴信が諏訪に攻めて来た時の状況や、その後高遠頼継との間で行われた宮川端での合戦などについて書かれていました。
A武田晴信名字状
守矢信実(信真)は守矢頼真の嫡男ですが、後に武田晴信から「信」の字を与えられた時の資料であり、同時にこの時に武田晴信から守矢家に贈られた「十角重箱」も展示されていました。
B武田信玄願文
永禄8年に武田信玄が、上野の箕輪城を攻略することを願って諏訪上社に奉納した願文で武田信玄の直筆とのことでした。昔の人の字というのは達筆で流れるような時でよく分からないものがほとんどですが、この字は活字のように一文字ずつ丁寧に書かれていました。

御頭祭の復元展示
諏訪大社の祭祀の中心をなすのが前宮で行われる御頭祭(現・酉の祭)で春先神前に75頭の鹿をはじめ魚・鳥・獣の肉を山のように盛り上げ酒を献じ、かがり火に照らされながら神と人が一体になって饗宴を催うした。この展示は江戸時代中期の様子の一部で天明4(1784)年3月6日に御頭祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに復原した。
(展示室内記載文章より)

守矢家について
今から千五、六百年の昔、大和朝廷の力が諏訪の地におよび以前からいた土着部族の族長で曳矢神と呼ばれ、現在の守屋山を神の山としていた。しかし出雲より進攻した建御名方命に天龍川の戦に破れ、建御名方命を諏訪明神として祭り、自らは筆頭神官つまり神長官となった。中央勢力に破れたものの祭祀の実権を握り、守屋山に座します神の声を聴いたり山から神を降ろしたりする力は守矢氏のみが明治維新の時まで持ち続けた。この資料館はそうした守矢家が伝えてきた古文書などの歴史資料を78代守矢早苗氏より茅野市が寄託を受け地域の文化発展に資するために建設された。
(展示室内記載文章より)


神長官邸のみさく神境内社叢

2本のカジノキは、それぞれ、およそ100年・40年の樹齢と推定される。植樹されたものであるが、諏訪大社の神紋をもつ樹種で、当地方としては珍しく、また、貴重である。カヤ・クリも市内では大きい方であり、古い由緒をもつ当社を象徴する社叢として保存の価値を認めるものである。みさく神は、諏訪社の原始信仰として、古来専ら神長官の掌る神といわれ、中世の文献「年内神事次第旧記」・「諏訪御符礼之古書」には「前宮二十の御左口神勧請・御左口神配申紙は紙長の役なり。」とある。このみさく神は、御頭みさく神ともよばれ、諏訪地方みさく神祭祀の中枢として重んぜられてきている。
(看板資料より)


諏訪大社上社前宮
諏訪大社上社本宮

 

 
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