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群馬県みなかみ町

明徳寺城

2013年01月12日

明徳寺城は南北朝時代、会津の葦名氏の来攻に備えて荘田城の沼田氏が築いた天神山砦を改築したものと考えられ、明徳年間(1390〜4)僧の松庵が城郭の下に明徳寺を開山したことから、現在の名称が一般的になっている。
戦国時代、沼田氏滅亡後の沼田は、上杉氏の時代を経て天正7(1579)年北条氏の領有するところとなった。この頃、東上州進出の機を窺っていた信州の真田昌幸は、吾妻の岩櫃城を拠点に名胡桃、小川の両城を攻略。利根川西岸を固めたため、沼田城代藤田能登守は明徳寺城を構築、沢浦隼人、渡辺左近、西山市之蒸、師大助等を置き名胡桃、小川に対峙した。
翌8年1月の夜半、昌幸は明徳寺城を急襲した。城代矢部豊後守は左近、大助等将兵200余騎ともども奮戦。死守すれどもついに破れ沼田に退去した。昌幸は弥津志摩守、出浦上総介等を明徳寺城に置き、さらに城を補強した。
その後、天正17(1589)年、豊臣秀吉の盟約により、北条氏は名胡桃城を除く利根、沼田の地を安堵された。しかし、北条側の沼田城代猪俣憲直が名胡桃城を不法攻略したことをきっかけに、翌18年秀吉の小田原征伐が開始され、北条氏は滅亡、再び利根・沼田は真田氏の所領となり、明徳寺城は廃城となった。
明徳寺城址は、大字後閑字城山の南東の幅広い尾根上に立地した土囲式丘城格の崖端城で、規模は400×300m、現在、城郭内は畑地となっているが三段ほどの郭に区画され、周囲には高さ2m以上の二重の高土居がめぐり、その間の濠、虎口、櫓台、井戸、高土居外に付加された馬出郭、さらに南東の字外城山の尾根を掘切った遠構えなど、一部崩落しているが多くの遺構が当時の原形を止どめている。
(看板資料より)

土塁

利根・赤谷両川合流点の上手、唯一の渡渉地の押さえに築かれた城で、上越線後閑駅の東北700mにある。天正8(1580)年5月21日払暁、真田昌幸はこの城を奇襲し、矢部豊後守らを破って占領し、これを橋頭堡として7月に沼田城を奪取した。
遺構は、本丸・二の丸を分けた中仕切り以外は完全に保存されていて、東から南を巡る二重高土居の間の空堀様の腰郭が、この城の特徴である。東北には郭馬出しが付く。
(日本城郭大系より)

土塁

最初に麓の明徳寺を訪れ、住職と思われる方に明徳寺城について聞いてみたところ、丁寧に場所とそこまでの行き方について教えてくれました。関越道のすぐ近くにある「つきよの温泉」という温泉施設の奥でした。
つきよの温泉で話を聞いてみると、何もないが…とのことでした。しかし駐車場の奥の入口から入っていくとすぐに本郭らしいところに出て周辺は大きな土塁で囲まれていました。竹薮の中にも土塁や空堀などの遺構が残されていました。
更に奥に進んでいくと降り道があって石仏や水子地蔵などもあり、また帯曲輪と思われるものも確認できました。

水子地蔵

 
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