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長野県阿智村

浪合関所跡

2014年03月23日

天文23(1554)年伊那郡を手中にした武田信玄は、弘治年間(1555〜1557)南信濃の諸将の動向を監視するため関所を各地に配置した。浪合関所は、伊那から東海方面に通じる伊那街道の要害の地として最初は滝の沢(現平谷村)に設けられた。その後元和7(1621)年浪合宿町頭(現上町文の木付近)に移転、さらに幾度も水難に遭ったため、享保7(1722)年現在の深沢地籍に移った。武田氏は、土地の豪族浪合備前をして取り締まりに当たらせたが、その後、飯田城主毛利、京極両氏の支配を経て江戸幕府領となった。慶長6(1601)年駒場の代官宮崎氏、元和6(1620)年旗本村上氏、寛永元(1624)年からは阿島(現喬木村)の旗本知久氏が幕府より預かった。
信州と三河を結ぶ伊那街道は、江戸・京都間の中山道や東海道の裏街道として、庶民に利用されていた。浪合関所には南・北の二門と、番所等があり、三ツ道具(突棒・刺股・もじり)等を備え、幕府で決められた人数は、給人一人、足軽三人、中間一人、水夫一人で、給人・足軽は、阿島から交替で配置された。最初は軍事的な役目を多分にもっていたが江戸時代は「入鉄砲に出女」の取り締まりを主として行い、江戸末期には物資の荷改めをするようになった。明治2年関所廃止令により建物は取り壊されたが、基礎石、周囲の石垣等が往時の姿をとどめている。関所が存続した期間は、信玄創設以来315年、この地に移って148年である。
南門は絵図面等の資料及び基礎石から推定して設計、平成4年12月復元した。門の形式は薬医門で一門一戸、高さ5.45m、間口の幅は3m、総桧造り、屋根は銅板葺である。
(看板資料より)

 



2004年9月20日

天文23(1554)年伊那郡を手中にした武田信玄は、弘治年間(1555〜1557)南信濃の諸将の動向を監視するため関所を各地に配置した。浪合関所は、伊那から東海方面に通じる伊那街道の要害の地として最初は滝の沢(現平谷村)に設けられた。その後元和7(1621)年浪合宿町頭(現上町文の木付近)に移転、さらに幾度も水難に遭ったため、享保7(1722)年現在の深沢地籍に移った。武田氏は、土地の豪族浪合備前をして取り締まりに当たらせたが、その後、飯田城主毛利、京極両氏の支配を経て江戸幕府領となった。慶長6(1601)年駒場の代官宮崎氏、元和6(1620)年旗本村上氏、寛永元(1624)年からは阿島(現喬木村)の旗本知久氏が幕府より預かった。
信州と三河を結ぶ伊那街道は、江戸・京都間の中山道や東海道の裏街道として、庶民に利用されていた。浪合関所には南・北の二門と、番所等があり、三ツ道具(突棒・刺股・もじり)等を備え、幕府で決められた人数は、給人一人、足軽三人、中間一人、水夫一人で、給人・足軽は、阿島から交替で配置された。最初は軍事的な役目を多分にもっていたが江戸時代は「入鉄砲に出女」の取り締まりを主として行い、江戸末期には物資の荷改めをするようになった。明治2年関所廃止令により建物は取り壊されたが、基礎石、周囲の石垣等が往時の姿をとどめている。関所が存続した期間は、信玄創設以来315年、この地に移って148年である。
南門は絵図面等の資料及び基礎石から推定して設計、平成4年12月復元した。門の形式は薬医門で一門一戸、高さ5.45m、間口の幅は3m、総桧造り、屋根は銅板葺である。
(看板資料より)

国道153号線からそれて浪合村役場へ向う途中に浪合関所跡の看板が出てくるのでそちらに進み、行き止まりになったところに車を止めてそこからは徒歩ですぐのところです。歩き出すとすぐに昔の道へと雰囲気は変わります。途中川を渡るために弱々しい橋を渡りますがこれはかなり恐かったです。関所の周辺だけ突然400年前の世界にタイムスリップしてしまたような感じのところでした。
川の反対側の小高いところに神社があったので登ってみましたが特に何もありませんでした。

 

 
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