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長野県平谷村

滝之澤城・とつばせ関所跡

2014年03月23日

中世の戦略的な城は郭、砦、柵を連ねて城とした。滝之澤城は「南部の要害」とうたわれ、本陣地を中心として柳川の東西1km余の長い馬蹄型の城である。東西の山麓一帯には郭跡、砦跡が今も残っている。
天正10(1582)年武田軍の下条信氏父子が織田の大軍を邀撃した激戦地である。武田軍の下条氏は同族氏長の叛逆にあって敗れたが、寡兵よく防戦できたのも、南に対して守備の堅い滝之澤城の要害があったからである。
(看板資料より) 


赤児石由来
戦国の世、落人の置き去りにされた赤子が石の上に立って泣きつづけました。するとその子の足跡が石に残り赤児石と呼ぶようになって祈願すると幼児の病気や夜泣きにご利益があるといわれます。お礼参りの赤い旗やよだれかけなどが奉納され今もお参りが絶えません。
ご神体は赤児石尊で昭和5年3月新しくお堂が建立されました。
(看板資料より)

 



2004年9月20日

中世の戦略的な城は郭、砦、柵を連ねて城とした。滝之澤城は「南部の要害」とうたわれ、本陣地を中心として柳川の東西1km余の長い馬蹄型の城である。東西の山麓一帯には郭跡、砦跡が今も残っている。
天正10(1582)年武田軍の下条信氏父子が織田の大軍を邀撃した激戦地である。武田軍の下条氏は同族氏長の叛逆にあって敗れたが、寡兵よく防戦できたのも、南に対して守備の堅い滝之澤城の要害があったからである。
(看板資料より)

平谷村の国道153号線を走っていると滝之澤・とつばせ関所に関する大きな看板が出てきます。この付近を中心にいくつかの砦を組み合わせた滝之澤城と、これとは別に関所跡の史跡があるらしいのですが、滝之澤城の本陣地(本丸?)と、とつばせ関所跡がちょうど同じ位置にあたるらしくその場所に上の写真のような杭が打ち込まれていました。
下条氏は長野県下条村の吉岡城を本拠地にしていたはずですが平谷村の方までその勢力範囲だったことを知りました。南信州一帯に勢力を張っていた大豪族だったのですね。
また浪合関所の案内板で、浪合関所は始めは滝の沢(現平谷村)にあったとのことですので武田信玄の時代はここに関所があったようです。


赤児石由来
戦国の世、落人の置き去りにされた赤子が石の上に立って泣きつづけました。するとその子の足跡が石に残り赤児石と呼ぶようになって祈願すると幼児の病気や夜泣きにご利益があるといわれます。お礼参りの赤い旗やよだれかけなどが奉納され今もお参りが絶えません。
ご神体は赤児石尊で昭和5年3月新しくお堂が建立されました。
(看板資料より)


有形文化財・木地師墓石軍

 
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