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愛知県新城市

茶臼山織田信長戦地本陣

2014年08月16日

天正3(1575)年、長篠の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて、上平井の極楽寺で軍議を開き武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
そして自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。このすぐ北側には側近木下秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した布陣は当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。
ここには珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
(看板資料より)


「信長の陣茶臼山に歌碑もあり」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

茶臼山稲荷社

茶臼山公園
当地点は標高134.5メートルである。前面のゆるやかな斜面に横穴式古墳二基があり、裏側には山住稲荷社等がまつられている。北につづく高台の中央の塚から経筒(平安末期)が出土した。今はここに茶臼山稲荷社がまつられ、かつては石段の両側に天正の白山祠等がならんでいた。
天正3(1575)年5月長篠の役設楽原決戦の時、織田信長の戦地本陣となった所であり、全国でも珍しい信長の歌碑がある。この付近一帯は中世の山城であり、また旧南設楽郡旧石座村の人たちの軍人招魂慰霊の地でもあった。
(看板資料より)


織田信長の歌碑



2006年05月06日

以前も来たことがあったので駐車場に車を止めてから奥に向って歩いて行きました。しかし途中で遊歩道がなくなってしまい大きな堀に下ってどんどん進んだのですがまったく進めなくなってしまったので引き返しました。実は駐車場から歩き始めてすぐのところで右に入って行く道があるのでそっちに行くのが正解です。看板を立てておいてもらわないとちょっと分かりづらいです。
今回、道を間違えたおかげで茶臼山周辺を歩くことができましたが、信長が本陣を置くだけの大きな規模の台地であることが実感できました。

 



2003年10月12日


織田信長戦地本陣跡
天正3(1575)年、長篠の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて、上平井の極楽寺で軍議を開き武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
そして自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。このすぐ北側には側近木下秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した布陣は当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。
ここには珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
(看板資料より)


「信長の陣茶臼山に歌碑もあり」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

織田信長の歌碑

茶臼山公園
当地点は標高134.5メートルである。前面のゆるやかな斜面に横穴式古墳二基があり、裏側には山住稲荷社等がまつられている。北につづく高台の中央の塚から経筒(平安末期)が出土した。今はここに茶臼山稲荷社がまつられ、かつては石段の両側に天正の白山祠等がならんでいた。
天正3(1575)年5月長篠の役設楽原決戦の時、織田信長の戦地本陣となった所であり、全国でも珍しい信長の歌碑がある。この付近一帯は中世の山城であり、また旧南設楽郡旧石座村の人たちの軍人招魂慰霊の地でもあった。
(看板資料より)

松尾山方面からの茶臼山



「来援をせかじとつげし鈴木金七」

新城市富永旧川上村の鈴木一族の出自天正3年5月18日(陽暦7月)長篠城から敵の重囲を破り城将貞昌の「城兵は意気軒昂たり、決戦を急ぎ給うな」の言を家康本陣に伝え、これが連合軍の勝機につながったという。
後、父祖の地作手亀山城主となった松平忠明は、作手村田代に帰農していた金七をたずね、二百石の禄を与えて往年の労をねぎらった。
(看板資料より)

信長の本陣であった茶臼山の麓に鈴木金七に関することが書かれた看板がありました。鈴木金七は鳥居強右衛門とともに長篠城を脱出して岡崎に向かったが、鳥居強右衛門が再び長篠城に戻り途中磔死したのに対して鈴木金七は岡崎に留まったらしい。戦後鳥居右衛門は英雄となったが、対する鈴木金七は武士をやめて帰農したという。

 

 
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