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長野県小諸市

武田信繁首塚

2005年09月24日

このページを作成していて気づきましたが、ここにはちょうど2年ぶりの再訪問となりました。布引山釈尊寺のすぐ近くで、入口には上の写真のように「武田信繁の墓」と書かれた看板がありました。墓域の前のお宅の方にお話を聞き、武田信繁の墓がどれなのか確認して下の写真のものであることを確認することができました。お話を聞かせていただいた方も長野市の典厩寺に行ったことがあるようで、典厩寺にある武田信繁の墓の墓石と良く似た形であるとのことでしたが、帰宅後写真を見比べてみると確かに良く似たような墓石でした。看板に記載されているように以前の墓碑が布引山釈尊寺にあるとのことでしたのでこの後訪れてみましたが、話によれば確かに釈尊寺に墓碑はあるものの、残念ながら見せてもらうことはできませんでした。



2003年09月23日

武田信繁の墓碑由来について
永禄4年9月の川中島合戦は、信玄対謙信の最大の戦いで両軍とも有名な武将を多く失っている。信玄方の副大将であった信繁もこの激戦において戦死した。
最後まで信繁のそばで奮戦した忠臣山寺佐五左ェ門は、この川中島が大激戦地で御首級を収める場所がなかったので御体のみを埋め(現在の川中島天厩寺墓所)、首級は幌で包み、地蔵峠を越えて小諸へ向かったという。
なぜ小諸へ向かったかというと、当時の小諸は甲州の領地であり、永禄2年まで信繁の嫡男信豊が城主としていた甲斐方の拠点であったからである。小諸についた山寺は信豊の家臣等と相談し領内のこの地を選び、有合わせの陣鍋で首級を覆い葬ったといわれている。
時代は移って寛保の千曲川大洪水で信繁の墓碑(五輪の塔)が流失し、嘉永2年この付近の畑中よりそれと思われる円石が発見され判読の結果信繁の墓碑と判明した。その墓碑は現在布引山釈尊寺に寄託されており、今の墓碑は明治20年に建立したもので、信繁の首級はこの墓の下に往昔のまま陣鍋に収められ静かに眠っているといわれている。
(看板資料より)

上田城から望月城に向かう途中に寄ってみたのですがどれが武田信繁公の墓碑なのか分かりませんでした。ちょうどこの日は秋分の日でお墓参りの人が多く道も狭くてゆっくりと車を止めておくことが出来ませんでした。次回もう一度訪れてみたいと思います。


典厩寺
釈尊寺

 

 
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