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長野県長野市

典厩寺

2003年08月15日

典厩寺由来
当寺はもともと鶴巣寺と号し永禄4年9月10日川中島合戦の際、信玄の実弟典厩信繁の陣営地にして奮戦の末、この付近ではなばなしく討死したので遺骸を当寺の境内に埋めて典厩塚と云う。
元和8年(合戦から60年後)に武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め川中島戦死者群霊を弔い永遠に史跡として記念することになった。現今川中島平における直戦地古戦場と平和静寂な観光の地にして古を偲ぶ歴史的研究者の最も良き名勝地なり。
(典厩寺パンフレットより)


武田典厩信繁公の墳墓
永禄4(1561)年川中島合戦の際この寺は信繁公の本陣となり奮戦の末37歳で討死した。
(看板資料より)
宝永の古書に「信繁公の御葬地は其の頃御石碑無之此所なりとて古き松あり」と記してあり。昔は松の外に何もなく村人は典厩塚と云って来たが、元和年間に松代藩真田信之の許しにより鎌原家が長さ6尺余の野石を以って碑を建立せり。
(典厩寺パンフレットより)


甲越弔魂碑(明治39年)
明治39年9月10日に川中島合戦350年祭を行い閑雅清浄の庭園に元帥・伊東祐亨の筆なる「懐古」の一大記念碑を建て右に謙信の勇士力試しの遺石と左に信玄愛賞の庭石を配列せり当寺の庭園は元伊東元帥により懐古園と銘名され玄関先には皇太子様(大正8年)宝物御大覧記念の松が栄え、各宮家の御来遊記念樹、梅、桜等多く春になれば花咲き匂いて情趣深し。
(典厩寺パンフレットより)


信玄の愛石


謙信の力石


座禅石


典厩信繁公の首きよめの井戸


川中島合戦記念館(昭和41年)
昭和39年秋川中島合戦400年記念祭を典厩寺にて行い其の記念事業として古くから寺宝として伝わってきた宝物60点を永遠保存するため記念館を建設し昭和41年4月完成式を行い広く観光者のため毎日宝物展覧す。
(典厩寺パンフレットより)


閻魔堂(万延元年)
境内の閻魔堂は川中島合戦300年の記念殿として建立し万延元年に300年祭の大法要を行い川中島群霊の冥福を増進せしめたり。
堂内には2丈余の朱塗閻魔大王の像を安置し後壁に四天王を、天井に三十三身の像を画げり尚此の堂には弘法大師作の薬師如来(鶴巣寺の頃の本尊)を祀り毎年1月と8月の16日を縁日として盛大なり。
(典厩寺パンフレットより)
★日本一大きな閻魔様とのこと。


典厩寺は信玄の弟である典厩信繁が祭られているお寺です。彼は永禄4年の川中島合戦で八幡原にて鶴翼の陣をはった武田本隊の最も激戦の場所に布陣して兄信玄の本陣を守り抜き討死してしまいます。兄信玄に協力し、理想的な弟、そして理想的な武将として、真田昌幸は自分の次男である真田幸村に信繁と名付けています。
父信虎は長男晴信を疎み、弟信繁に家督を譲ろうとしたといわれています。普通であればそういう状態の兄弟関係はうまくいかないケースが多いのですが、晴信の代になってからも、弟・信繁は兄晴信を慕い、また兄・晴信も弟信繁を信頼していたということを考えると、真田昌幸だけではなくきっとすべての家臣の信望を集めていたはずです。


武田信繁首塚
釈尊寺

 

 
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