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愛知県岡崎市

岡崎城

2006年05月05日

岡崎城天守閣

岡崎公園散策マップ

15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。1542(天文11)年12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。
現在の天守閣は1959(昭和34)年に復原され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており三河平野を一望することができる。
(看板資料より)


岡崎城大手門

この大手門は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として建設したものです。本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約200メートル)にありました。江戸時代の記録によれば大手門は「桁行十間、梁行二間四尺」でした。
(石碑記載文章より)


徳川家康公銅像

天文11(1542)年12月26日岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5(1600)年天下分け目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。以降持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2(1616)年4月17日75才でこの世を去った。
この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。
(看板資料より)


東照公遺訓碑

人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なしこころに望みおこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。慶長8年正月15日
人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな。
(看板資料より)

東照公遺訓碑由来
この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18年3月98歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に到った。
碑文の文字は田安徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和11年4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意思により省略されたままであるが、本年は、遺訓碑が建立されて50年、また、岡崎市制70周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。
(看板資料より)


産湯の井戸

天文11(1542)年12月26日徳川家康公が岡崎城内で誕生した。この井戸の水を汲み、産湯に使用した。
(看板資料より)


私にとっての岡崎城とは、
@徳川家康が生まれたところ
A大賀弥四郎による岡崎城乗っ取り計画
B鳥居強右衛門が長篠城を脱出して向ったところ
でした。
岡崎は場所も遠かったし、武田信玄や武田勝頼の支配が及ばなかったところとして訪問していませんでした。しかし今回ちょうど近くを通りかかったので寄ってみることにしました。朝一番で訪問したので施設等はまだ営業しておらず、城内を歩いてまわっただけですが、公園として整備されていて規模も大きかったです。堀なども大きくて深く、天守閣も大きい建物で驚きました。
徳川家康が生まれたところなので、産湯の井戸などもありました。

 

 
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