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静岡県静岡市

興津城

2014年12月07日

この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(又は近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎、「承久記」には興津左衛門の名があり、始めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上下方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石時文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部以来はその被官となった。
延文年間(1356〜1361)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。連歌師の宗長は興津氏と親交があり、しばしばこの城を訪れ、数首の歌が「宗長手記」に残されているが、大永5(1525)年の頃には「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」と記されている。そして永禄11(1568)年12月甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで、興津氏代々の居城であった。
この城を奪った武田氏は直ちに改修に着手し、翌12年2月には完了して穴山梅雪に守らせた。そしてこの年正月今川氏真救援のために出兵した北条氏康の軍(薩埵山に陣をとる)と、4月29日に撤退するまで90日余にわたり興津川を挟んで対戦し、武田軍の拠る横山城に北条勢が来襲したり、逆に武田勢が薩埵山を攻めた記録も残されている。
その後武田氏は横山城に城番を置き、支城の一つとして重要視したというが、天正10(1582)年武田氏の滅亡と供に廃城となった。
(看板資料より)

城址看板に書かれていた横山城址鳥瞰図

石垣



2003年06月21日

この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(又は近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎、「承久記」には興津左衛門の名があり、始めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上下方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石時文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部以来はその被官となった。
延文年間(1356〜1361)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。連歌師の宗長は興津氏と親交があり、しばしばこの城を訪れ、数首の歌が「宗長手記」に残されているが、大永5(1525)年の頃には「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」と記されている。そして永禄11(1568)年12月甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで、興津氏代々の居城であった。
この城を奪った武田氏は直ちに改修に着手し、翌12年2月には完了して穴山梅雪に守らせた。そしてこの年正月今川氏真救援のために出兵した北条氏康の軍(薩埵山に陣をとる)と、4月29日に撤退するまで90日余にわたり興津川を挟んで対戦し、武田軍の拠る横山城に北条勢が来襲したり、逆に武田勢が薩埵山を攻めた記録も残されている。
その後武田氏は横山城に城番を置き、支城の一つとして重要視したというが、天正10(1582)年武田氏の滅亡と供に廃城となった。
(看板資料より)

城址看板に書かれていた横山城址鳥瞰図

興津の対陣
武田勢が駿河に攻め込んで薩埵山の今川軍を破った勢いでそのまま駿河府中を占領した後、北条軍が薩埵山を押さえ、上記の通り90日間に渡って対陣が続いた。北条を敵にまわしてしまった信玄は苦境に陥ったが、信長に泣き言を言って足利将軍を利用して上杉輝虎(謙信)の動きを牽制することに成功した。しかし徳川家康が駿河に向かってきていることを知り、輝虎の動向も気になることからとうとう撤退を決意するのである。撤退するに際して穴山信君(梅雪)を江尻城(静岡県清水)に守らせ、信玄は本陣の久能城から興津川沿いに北上して徳間峠を経て甲斐に入ってから富士川を北上して甲府へ撤退した。また駿府城にいた山県昌景も安倍川沿いに北上して梅ヶ島から安倍峠を経て甲斐に戻ったそうです。これらの撤退路はそのうち実際に通ってみたいですね。武田軍が撤退した後、駿河は北条、徳川によって分割占領されてしまったのでした。

陽動作戦成功
その後、敵にまわしてしまった北条に対する牽制作戦として小田原城包囲、三増峠の合戦が行われますが、その直後再び駿河に侵攻。このとき直接蒲原城を攻めたのか、もしくは先に薩埵山の砦を守っていた北条軍を駆逐して興津城を落としてから蒲原城を攻めたのかはよく分かりませんが、これ以降再び武田方の城となっています。

 

 
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