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山梨県韮崎市

韮崎合戦大坪古戦場碑

2009年12月29日

@韮崎宿の東北の片山の下に位置し、今は田となっている。殿田・旗田(旗を立てた所で八段田と呼んでいる)・信玄平(片山の中段で少し平な所)・伊勢山(信玄平の上で神明を祀る)・大明神坂(穴の明神の跡である、この坂から落としかけ撃った所という)。大坪の続き北の屋敷辺りで鏃・槍・刀の折れたものなどを拾うことがある。陣場は北天神という叢宇津谷でもこの合戦の事跡を言い伝えている。

A『勝山記』に、「享禄4(1531)年正月10日に飯富殿・栗原殿が屋形をさげすんで社内を引き退き、御岳へ馬を御入れたので、浦の信本も御同心した。彼らは信州の諏訪殿討ち死にされた。武田勢が討ち取った頭八百ばかりだということである。そのまま信州勢は皆引かれた」とあるのは、この合戦のことだろう。

B天文10(1541)年武田家に家督相続の内訌があった。武田信虎が娘婿の駿河の今川氏のもとに退き、晴信が家督をつぐと、諸侯の中にも新領主に対して二心を抱く者があった。その虚に乗じて積年の恨みを抱く信濃の諏訪氏や小笠原氏が、甲州を倒そうとして企てたのが韮崎の合戦であった。
合戦の様相は明らかではないが、信州深志(松本)の城主小笠原長時が諏訪の領主諏訪頼重と示し合わせて、総勢9600あまりで台ヶ原口から真一文字に押し寄せて船山に陣を敷き、一挙に甲斐をほうむろうとした。この情報が躑躅ヶ崎の館に達したので、信玄は腹心の諸将に命じて軍旅を整えて屋形を出発した。その日に楯無原に着き部署を定めて指揮した。第一陣は飯富兵部少輔、第二陣は甘利備前守、第三陣は小山田備中守、第四陣は板垣駿河守、次は信玄の本営とし、後陣には今井伊勢守、日向大和守、旗本の左右には教来石民部少輔、原美濃守、小幡織部正、横田備中守、安間三右衛門、鎌田五郎左衛門等の六隊で総勢6000余、時あたかも日没であった。信州勢から母衣の武者二騎が信玄の陣営に来て、翌日卯の刻(午前6時頃)を期して塩川で雌雄を決したいと申し込んだ。敵は我が軍の山を下り塩川を渡るのを待って撃破する手はずだと見てとった信玄は、夜陰に乗じて楯無原を北に進み、絵見堂の辺で塩川を渡り、片山の上の信玄平と称する地に本営を定め、諸隊を配置して夜明けを待った。敵は船山に本営を置き、塩川の右岸に進出し、武田軍のかがり火が天を焦がさんばかりに上がるのを見て、武田軍が側背にいるとは夢にも思わなかった。初秋の暁、霧が晴れわたらんとする時に、七里岩の鼻先に八幡大菩薩の大旗一流が朝風に翻り、その前後左右に隊伍がしゅくしゅくと並んでいるのを見て、敵の狼狽は一方ならず大きかった。小笠原長時、諏訪頼重らは幾百の合戦になれた豪の者だったので、驚き迷う兵たちを叱責し、にわかに陣容を立て直して武田軍に向った。諸隊入り乱れて戦うこと数度、互いに火花を散らして挑み合い、敵は死に物狂いとなって奮闘したが、最初の手筈の違いから苦戦に陥り、勝算はなかった。その時、甲府の館にいた原加賀守が農兵隊を編成し、古旗・紙旗など数百流を押し立てて、鐘や太鼓を鳴らし、穂坂の高地に現われ、ときを作って盛んに威勢を示した。敵は後詰めの大軍が出現したかと驚き、退路を断たれるのを恐れて、にわかに矛先が乱れた。この時、晴信が軍配を取り、「敵は逃げ足となりたるぞ、この気を失せず追い討て」と命令した。将兵は勇気百倍で追撃したので、敵は総崩れとなり、大将も命からがら釜無川を渡り武川路を逃げ帰った。この合戦において敵の死傷者は数知れず、武田軍が討ち取った首級が2748あったといわれ、かなりの激戦であった。
(山梨県の武田氏伝説より)


事前の調査で韮崎駅の近くにあるとのことでしたので韮崎駅に向いました。朝一番で行ったので通勤する人たちがいました。街中だったので怪しい人に間違われないように周辺を探索しました。それらしい地点にそれらしい石碑が見えたのでとりあえずその場に行ってみると秋山某の感状などが刻まれた石碑でした。しかし裏にまわってみると韮崎合戦云々とあったのでこの石碑が目的のものであることが分かりました。場所は個人宅の玄関先でした。

 

 
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