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山梨県韮崎市

八幡神社

2014年03月21日

甘利八幡と称し、甘利氏代々の氏神といわれる。:「甲斐国志」
甘利庄は、甲斐源氏武田信義が武田に居館をおいてからその勢力下に入り、その子一条忠頼についてその子行忠に伝えた。行忠は甘利庄に居館を構え甘利氏と称し、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請。甘利八幡宮として祭り代々これを氏神として尊崇したといわれる。
甘利氏はその後も甘利庄を伝領。武田家家老職を世襲し、なかでも備前守虎泰、左衛門尉昌忠父子は輔弼の名臣で武田家の股肱といわれた(山梨百科辞典)。
また「甘利山沿革誌」によると甘利氏の菩提寺である甘利山大輪寺六更目勝記に「当村宮下ノ氏神近戸大明神ハ甘利家累代ノ氏神ニシテ数年来当時ニ於テ支配シ祭祀法味ヲ呈ス也云云」(天和3(1683)年)また「当村ヲ宮下ト呼ハ新羅三郎源義光公御入国之后鎌倉八幡宮ヲ宗敬メ勧請此地氏神トス故名所ヲ鎌倉八幡ト云ヒ村ヲ宮下ト云フ」とあって近戸神社が甘利家の氏神、八幡神社は宮下の氏神のようにみえるけども、前記のように甘利氏が最初勧請し氏神として崇敬したのは当時の情勢からみて八幡神社であって、近戸明神は大輪寺で祭祀もしているので甘利氏と寺の関係のなかにあったものと思われる。
近戸神社は明治42年6月甘利学校校庭の拡張のため八幡神社に合祀され今日に至っている。
(看板資料より)

 
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