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長野県木曽町

小沢川古戦場

2013年08月02日

<EOS M EF-M11-22mmf/4-5.6ISSTM 11.0mm Tv:1/125 Av:8.0 ISO:100>

天文17年7月武田・小笠原の両軍が塩尻峠に戦い、小笠原方三村長親が武田に内応したため、遂に小笠原軍の敗退となって甲軍は松本平にその足跡を印した。爾来5ヶ年武田の軍は安筑の諸城を陥れ、同21年12月中塔城の陥落を見て、安筑は殆ど武田氏のために蕩平せられてしまった。是に於て晴信は木曽を攻略せんと志し、同24年の春3月、自ら兵を率いて松本に進出し、栗原左兵衛、多田淡路をして兵数百を以て鳥居峠を越え、藪原に至って陣を敷いた。木曽は大井の中關大隅を始め、中津川の丸山久左衛門・沖田淡路等を招いて防御の謀を囘らした。安筑の大勢を見た木曽の諸将中には、抵抗の無益なるを知って降りを主張するものが多数あったというが、義康父子・遠山・千村等主戦を主張して肯かたなったという。甲軍準備漸く成って将に福島を衝かんとした4月5日、晴信は越後の謙信川中島へ出陣の報を得て急遽北信へ向かった。栗原・多田亦敢えて南下しない。義昌気鋭?々兵を薮原に向けたけれども、甲軍さしてあらがわない。かくて持久戦に入っていた8月、晴信北信から戻って薮原に馬を進めた。
従うもの飯富三郎兵衛、長坂長閑、典厩信繫、市川宮内助の諸将。一方、甘利左衛門・原隼人・馬場民部・内藤修理・春日源正等を以て、稲核、奈川を通り木曽に進出せしめて木曽軍を挟撃せんとした。
隅々飛兵の王瀧を襲うものがあるとの報知を得て、義康は義昌をして福島を守らしめ、自ら王瀧に向かった。この飛兵はほんの鼠賊で直に退いて、義康は福島に戻った。
甲軍栗原・飯富・市川等兵を進めて小澤川畔に陣を敷いた。我軍中關藤内・於野喜左衛門・畑善兵衛・村井忠左衛門・廣野但馬・西尾丹波等迎え撃った。甲軍静まり返って思う壺に入らない。村井廣野あせって突進すれば、甲軍二手に開いて川を越え、村井・廣野の勢を挟撃した。村井・廣野乃ち戦死し、西尾丹波も亦負傷して退いた。甲兵勢いに乗じて追撃して来る。我軍之を防がんとしたが、甲兵再び二手に分かれて追い迫り、我軍敗退した。
是に於て義康決心して、味方多く討たれざるうち和を請うに如かず、と、遂に和議を申し入れた。晴信これを容れ、殊に木曽は高家であるとし、礼を厚くして之を迎え、義康遂に甲州に属した。義昌の妹岩姫(母とする記録もある)を質として甲府に遣わし白木八郎左衛門之が伝となって随行した。晴信木曽の従属せるを喜び、姻戚となって其間を緊密にせんとし、女を以て義昌に妻わせ、10月に甲府より入輿があった。千村備前・山村新左衛門・天部石見・天部主計を差添えとし、簾中の奉仕として千村・山村を木曽に止めしめた。
11月義康・義昌父子帯同して甲府に至って盟約を固めた。義康発するに臨み、重臣及家族を集め、今より我甲州へ赴かんとする。晴信萬一我ら父子を殺害するか、或いは木曽を攻めるが如きことあらば、汝等我に向かって矢を放って射殺せよ。と言い残し老兵僅か数十騎を伴って甲府に向かったという。後に至って晴信此事を聞き義康を尊敬したという。
義昌亦晴信に面謁して、前代義在の時木曽やや衰退の折甲州に属せしもの多きを語り、談たまたま原・小野・その他の事に及び、其の帰国せしめられんことを請うた。晴信これを許し、義在幼少の頃木曽を去った諸士再び木曽に戻ったという。
晴信亦小澤川合戦の節戦死を遂げた村井・廣野の遺子に就いて問い、之を憐れみ二氏の子をして簾中に服事せしめ、厚く之を遇せしめた。
(木曽福島町誌より)

正沢川

<EOS M EF-M22mmf/2 STM 22.0mm Tv:1/200 Av:7.1 ISO:100>

教育委員会の方に大体の場所を確認してから現地に向かいました。正確な場所は分からないのだそうです。近所のスーパーでご主人が配達から戻るのを待ってお話を聞いてみました。
すると国道から木曽川の方へ下っていった所に重機が置いてある周辺であることを教えてくれました。昔は湿地になっていたそうです。目印だった川は正沢川であり、この周辺の地名は小沢(コザワ)というのだそうです。小沢川という川は無いそうですが、コザワカワコセンジョウが正しい読み方なんですかね。

 



2004年09月19日

国道19号線を日義村から木曽福島町に入る所の橋を渡る直前を右に入ったところに食堂があり、小さな道を挟んで反対側の空き地に以前は小沢川古戦場の案内板があったそうなのですが台風で吹き飛んでしまって今は何もない状態とのことでした。お話を聞かせてくれたのはここから少し入ったところにあるIZUMIYAの方でしたがそのおじさんの話によれば古戦場は更に木曽川に近い方の資材置き場なのだそうです。その資材置き場はどこなのかは分かりませんでした。その後役場に行ってみましたが当日の日直の方は若い女性で余り郷土の歴史に詳しそうな人ではなく観光パンフレットをもらえただけでした。
せっかく日義村に来たので義仲館にも寄り、念のためここでも小沢川古戦場について聞いてみましたが収穫は無し。その後再び木曽川に近い場所に行ってみましたが、道端にいたおじいさんも古戦場については何も知りませんでした。

小沢川古戦場というのは、第2回目の川中島の合戦がおこなわれた天文24(1555)年に武田軍が木曽に攻めて来た際に、当時の福島城主木曽義康は王滝城にいたため、嫡子である木曽義昌がこの場所で武田軍を迎え撃ちましたが力及ばずに敗れて撤退したところなのだそうです。
その後、福島城、王滝城を囲まれ木曽義康、義昌父子は武田信玄に降伏しますが、信玄は決して木曽氏を疎略にせず、信玄の三女:真理姫を義昌の正室に娶らせ、木曽氏を御親類衆としたのである。

 

 
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