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長野県佐久市

龍雲寺

2014年05月02日

曹洞宗大田山龍雲寺
当寺院は鎌倉時代の初め、地頭大井氏(甲斐源氏)の菩提寺(臨済宗)として創建されたが、その後戦火のため荒れ果て、位置も現在地に移った。
時あたかも甲斐国主・武田信玄が、信濃の経略が一段落した永禄3(1560)年中興開基となり、北高全祝禅師を迎えて興隆をはかった。
・信玄公の遺骨が霊廟に安置されている(昭和6年5月29日境内にて遺骨発見)。
・武田家三代(信虎・信玄・勝頼公)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓碑がある(長野県史跡)。

・正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
・信玄公が上洛の際、必勝祈願の千人法幢(多勢の僧が道場に籠って行なわれる宗教的大行事)を元亀3年4月から7月にかけて執行した。
・武田文書を中心に38通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。

(看板資料より)

本堂

信玄公霊廟

信玄公の遺骨出土の地

長野県史跡 北高禅師墓碑

北高禅師は羽前(山形県)の人で、北畠顕家の後裔といわれる。12歳で父を失い、薙髪して諱を全祝、後に北高と号した。武田信玄は佐久郡の攻略を完了した永禄年中、先の兵火で荒廃した竜雲寺の再興をはかり、北高禅師を講じて中興開山とした、信玄は禅師に帰依すること篤く、元亀3(1572)年、竜雲寺を信濃曹洞宗僧録に任じ、同年4月甲州、信州、上州3ヶ国の僧を集めて千人江湖会(千人法幢)を行わせ、信濃領内曹洞宗会下のため法度を定めたりもした。
勝頼もまた北高禅師の徳を慕い、信濃国曹洞宗層録に任じ、天正2(1574)年祖父・信虎の葬礼に請じづ導師とし、竜雲寺の再興には小県郡番匠の軍役を免じて造営に当らせた。
このように禅師は、武田氏2氏の篤い信望をあつめて竜雲寺を再興し同寺の規式を定め、曹洞宗の興隆をはかった高僧で、天正14(1586)年12月、80才の高齢で寂した。
碑は無縫塔で、平面円形の基礎・蓮座・塔身の三部からなり、基礎は反花を省略、蓮座にも請花がない。塔身は頭部が僅かに突出し、頂部と身部の接点の肩が角張り、下に至るに従い細まり、正面下部に北高の2字が陰刻してある。
(看板資料より)

 



2006年12月03日

曹洞宗大田山龍雲寺
当寺院は鎌倉時代の初め、地頭大井氏(甲斐源氏)の菩提寺(臨済宗)として創建されたが、その後戦火のため荒れ果て、位置も現在地に移った。
時あたかも甲斐国主・武田信玄が、信濃の経略が一段落した永禄3(1560)年中興開基となり、北高全祝禅師を迎えて興隆をはかった。
・信玄公の遺骨が霊廟に安置されている(昭和6年5月29日境内にて遺骨発見)。
・武田家三代(信虎・信玄・勝頼公)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓碑がある(長野県史跡)。
・正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
・信玄公が上洛の際、必勝祈願の千人法幢(多勢の僧が道場に籠って行なわれる宗教的大行事)を元亀3年4月から7月にかけて執行した。
・武田文書を中心に38通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。
(看板資料より)

前日の夜に自宅を出発して上信越自動車道の甘楽パーキングエリアで車中泊して翌朝一番にこの龍雲寺を訪れました。まだ8時前だったので少し薄暗く、人を見かけることもなく静寂で、気温も低く何やら神妙な雰囲気を感じました。特に寺の入口の門の小さな電球の明かりが印象的で、歴史を感じさせられました。このお寺で昭和の初め頃に武田信玄の遺骨が発見され、今でもその遺骨が安置されているとのことでしたのでそれにまつわる史跡を見るのが目的でした。
ここで信玄公の遺骨が発見されたときに一緒に出土された袈裟の環に「大檀越信玄公、干時天正元年4月12日於駒場卒、戦時為舎利納○北高和尚頂礼百拝」と記載されていたそうで武田信玄終焉の地として駒場の長岳寺説の有力な根拠の1つとなっているのだそうです。
小さな電球の門の横に通常の入口があり、そこから境内に入ると大きな門がありました。置くに進むと本堂がありますが、本堂に向かって左側に信玄井がありました。武田軍が西上作戦する前に、必勝祈願の千人法幢の際に使用された井戸とのことでした。本堂に向かって右側には信玄公霊廟と書かれているので更に奥に向かって行こうとしたら奥から朝の掃除をしているおじさんがこちらに向かってきたので武田信玄の遺骨について聞いてみました。彼の話によれば遺骨が出てきたところに墓標があり、遺骨自体はその右側にある霊廟にあるとのことでした。霊廟には鍵がかかっていて通常拝観することはできないとのことでした。
霊廟に向かって参道の右側には大井氏の井戸もありました。また参道の入口のところにパンフレットが置いてあって、ご自由にお持ちくださいとのことでしたので駐車場に戻って読んでみたところ、なんと龍雲寺には北高全祝禅師の墓もあるとのことでしたので再び境内に戻って探しました。


信玄井

元亀3年千人法幢ノ際使用サレタル井


信玄公の遺骨出土の地


信玄公の遺骨が安置されている霊廟


大井公御茶湯免井


長野県史跡 北高禅師墓碑

北高禅師は羽前(山形県)の人で、北畠顕家の後裔といわれる。12歳で父を失い、薙髪して諱を全祝、後に北高と号した。武田信玄は佐久郡の攻略を完了した永禄年中、先の兵火で荒廃した竜雲寺の再興をはかり、北高禅師を講じて中興開山とした、信玄は禅師に帰依すること篤く、元亀3(1572)年、竜雲寺を信濃曹洞宗僧録に任じ、同年4月甲州、信州、上州3ヶ国の僧を集めて千人江湖会(千人法幢)を行わせ、信濃領内曹洞宗会下のため法度を定めたりもした。
勝頼もまた北高禅師の徳を慕い、信濃国曹洞宗層録に任じ、天正2(1574)年祖父・信虎の葬礼に請じづ導師とし、竜雲寺の再興には小県郡番匠の軍役を免じて造営に当らせた。
このように禅師は、武田氏2氏の篤い信望をあつめて竜雲寺を再興し同寺の規式を定め、曹洞宗の興隆をはかった高僧で、天正14(1586)年12月、80才の高齢で寂した。
碑は無縫塔で、平面円形の基礎・蓮座・塔身の三部からなり、基礎は反花を省略、蓮座にも請花がない。塔身は頭部が僅かに突出し、頂部と身部の接点の肩が角張り、下に至るに従い細まり、正面下部に北高の2字が陰刻してある。
(看板資料より)


長岳寺

 

 
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