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山梨県甲府市

信立寺

2013年09月01日

 
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信立寺は大永2(1552)年、身延山13世日傳上人が武田信虎の帰依を受けて建立した。上人はそのまま身延山には戻らずこの寺で亡くなったことから、久遠寺の隠居寺とも言われていた。寺の草創にはひとつの言い伝えが残されている。信虎の重臣に遠藤掃部介茂氏という人がいた。掃部介は法華経の信仰を持ち、主人の信虎にもその教えを説いていた。それが代々禅宗の家柄である信虎の怒りをかい、切腹を命ぜられた。信虎が重い病気にかかった時、ある夜、夢枕に掃部介が現れ、霊験あらたかな釈迦仏のことを知らせた。信虎は夏目原(笛吹市御坂町)に祀られていた釈迦仏を探し出し祈願したところ全快したという。
信虎は掃部介のために一寺を建立し、この釈迦仏を安置した。これが信立寺の始まりと伝えられている。
信虎はこの寺を建立する際、百日間法華宗になったと伝えられている。境内には信虎の供養塔(五輪塔)がある。
(甲斐百八霊場より)

武田信虎公の供養塔



2013年02月03日

信立寺は大永2(1552)年、身延山13世日傳上人が武田信虎の帰依を受けて建立した。上人はそのまま身延山には戻らずこの寺で亡くなったことから、久遠寺の隠居寺とも言われていた。寺の草創にはひとつの言い伝えが残されている。信虎の重臣に遠藤掃部介茂氏という人がいた。掃部介は法華経の信仰を持ち、主人の信虎にもその教えを説いていた。それが代々禅宗の家柄である信虎の怒りをかい、切腹を命ぜられた。信虎が重い病気にかかった時、ある夜、夢枕に掃部介が現れ、霊験あらたかな釈迦仏のことを知らせた。信虎は夏目原(笛吹市御坂町)に祀られていた釈迦仏を探し出し祈願したところ全快したという。
信虎は掃部介のために一寺を建立し、この釈迦仏を安置した。これが信立寺の始まりと伝えられている。
信虎はこの寺を建立する際、百日間法華宗になったと伝えられている。境内には信虎の供養塔(五輪塔)がある。
(甲斐百八霊場より)

住職にお会いして、武田信虎公の供養塔の場所を聞いたところ、供養塔ではなくて墓であるとのことでした。場所は本堂右側の廊下の下を通過して真っ直ぐ行ったところであると教えてくれました。
2つの五輪塔がありましたが、向かって左側に武田信虎公のものと分かる文字を確認することができました。

武田信虎公の供養塔

 
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