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愛知県新城市

設楽原歴史資料館

2003年10月12日

設楽原史跡めぐりのポイント
設楽原・長篠の史跡めぐりをする際の拠点及び情報収集の場としてまずこの設楽原歴史資料館に寄ることをお勧めします。新城市役所の方にも寄らせていただきましたが、文化財等に関することは歴史資料館の方の管轄なのだそうです。設楽原歴史資料館に寄れば親切に色々なことを教えてくれます。
私の場合は朝7時ころに到着してしまったのではじめは自分でいろいろと探すことになってしまいましたが、あらかじめここで史跡マップを購入しておけば効率的にまわることが可能です。

合戦当時の地形
設楽原に来てみると意外と平地がないことに驚きます。こんな山あいのところで本当に両軍あわせて数万の軍勢が戦ったのか?本当に武田の騎馬隊は突撃をしたのかと思ってしまいますが、地元の人の話によれば、近年の植林の影響でほとんどの丘に木が生えておりあたかも山のように感ずるところがあるが、木がなければ意外と平坦で所々に丘があるような感じで見通しも良かったのだそうです。

武田贔屓
歴史資料館で聞いた話によれば、通常合戦の際は合戦場となる土地の民衆は強い方の後方に逃げるのだそうですが、設楽原の合戦のときは設楽原の住民は皆、武田軍の背後に逃げたのだそうです。
設楽原の史跡を巡ってみたり、訪れたところで聞かせていただくお話などにから、ここでは武田軍に同情的な心情を感じることができました。長篠城周辺の地は今川、徳川、武田などの強大な戦国大名の勢力の接点で目まぐるしく支配者が移り変っていったはずなのに武田贔屓であったというお話を聞いて非常にこの地に親しみを感じるようになりました。もちろん設楽原の住民はまさか武田が負けるとは思ってもいなかったのかもしれませんが、しかしそれ以上にやはりあまりにも悲惨な敗北による敗者、死者への哀れみが強いような気がしました。

亡びの美学
今回地元の方の紹介で訪れた奥三河書房の方によれば、史跡を目的として長篠の地を訪れる人は年々減ってきているのだそうです。合戦にかかわる議論が活発になされ、昔はお祭りの場でも今でいうディベート大会のように各人の研究成果を発表し合い、議論を戦わせる場だったのだそうです。そういう方々も今ではほとんどの方は亡くなり、その後の世代の人たちによる歴史・郷土史研究熱は衰えてきてしまっているようです。また長篠・設楽原の地を訪れる人達の中には、戦国最強を誇った武田軍が総大将の死去後この地で大敗を喫し、その後滅亡していくことになる武田勝頼及び武田軍に対するはかなさを感じてくる人も多いのだそうです。それは私にも大いに当てはまることであり、なぜ武田が好きなのかの答えの一つであるような気もしました。

残して欲しい史跡のテーマパーク
設楽原及び長篠城周辺の史跡をめぐる際は、どこへ行っても物凄く大きな蜘蛛と、その蜘蛛の巣にひっかかってしまいます。時期的なものなのかもしれませんが蜘蛛の巣だけでなく多くの自然が残されておりその中にまた数多くの史跡が残されていました。第二東名などの工事予定もあるとのことですがこれらの史跡は是非残して欲しいものです。

 


1999年11月23日

信玄塚や、勝頼本陣跡地の近くに新城市の歴史資料館があった。長篠の合戦に関する資料、特に火縄銃に関するものが多く展示されていた。長篠の合戦での戦没者の霊を慰める地元のお祭りを紹介したビデオや、地元の小学生が卒業制作で作った長篠合戦図などが印象的だった。また設楽原出身の岩瀬忠震も紹介されていた。

 
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