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愛知県新城市

原隼人佐昌胤之碑

2013年07月07日

原隼人佐昌胤は、武田譜代の重臣、代々陣場奉行の要職を務めていた。陣場奉行は合戦場において地形を見定め、味方が有利に戦える場所を選定し、陣立ての資料を作成するのが役目である。昌胤は戦いでは内藤隊に属し、武田軍中央隊にあり、内藤と共に西軍の奪柵を攻撃し、衆寡敵せず退いて、内藤は天王山を、原昌胤は山形高地死守し討死した。大正3年長篠古戦場顕彰会により高さ117センチ、幅90センチの「原隼人佐昌胤之碑」の諸将の碑が、信玄塚の南西の畑に建てられた。
(東三河の史跡めぐりより)

 



2006年05月05日

原昌胤は陣場奉行であった原昌俊の子で父の死後は引き続き陣場奉行を勤めたという。長篠・設楽原合戦の際も陣場奉行として勝頼に撤退を進言したが容れられなかった。かるたでつづる設楽原古戦場によれば、原昌胤は内藤昌豊らとともに中央隊に属して徳川本隊目指しての攻撃に参加して奮戦したが惜しくも敵の銃弾を浴びて倒れた。また原昌胤は戦時の際は陣場奉行として活躍したが平時においては優れた土木技術者として治水工事において大きな業績を残しています。

 



2003年10月12日



「治水にもつくせし昌胤ここに死す」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

設楽原歴史資料館から信玄塚方面に歩き、やや右側の入口から入り、畑の中にあります。この奥には山県昌景陣地もあります。

 


原隼人佑昌胤屋敷跡
蓮朝寺

 

 
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